三義民刑場跡(三義民と万石騒動)

屋代家を改易に追い込んだ万石騒動の刑場跡

2023年6月3日義民の史跡

正徳元年(1711)、安房国(今の千葉県)北条藩は川井藤左衛門を家老に登用して無理な年貢増徴を図り、領内百姓による藩邸門訴や幕府老中への駕籠訴を招きました。頭取3人は川井の独断により吟味もなく死罪となりましたが、後に幕府評定所の詮議で川井も死罪、屋代家は改易となりました。この「万石騒動」に関連した「三義民の墓」及び「三義民刑場跡」は、館山市の指定史跡となっています。

義民伝承の内容と背景

安房国安房郡北条村(今の館山市)に陣屋を置く安房北条藩は1万石の小藩でしたが、藩主の屋代忠位(ただたか)は幕府の百人組頭や大番頭などの要職に就いていたため、財政的には困難を極めていました。そこで職を辞して出費を節減するとともに、家老に川井藤左衛門を登用して藩政改革を進めました。

元禄16年(1703)に発生した「元禄大地震」後の立て直し策として、川井は新田開発や用水路開削のために農繁期にも百姓を労役に駆り出し、神社仏閣の大木をみだりに伐採して売り払い、検見の上で年貢は6千俵の増税とし、さらに酒屋・糀屋に新規に運上を課したため、百姓の反発は大きなものがありました。

このため正徳元年(1711)には百姓600名が北条陣屋に押しかけて年貢減免を求め、次いで江戸表でも藩主への門訴を行いました。朝鮮通信使の来訪で繁忙の折、家老の川井もいったんは百姓の要求を認める墨付を渡しますが、程なく名主を陣屋に出頭させて墨付を奪うと、当初の約束を反故にしてしまいます。

百姓らは看過できないと江戸で老中・阿部正喬(まさたか)に駕籠訴に及びますが、その間にも27か村の代表である湊村名主・秋山角左衛門、国分村名主・飯田長次郎、薗村名主・根本五左衛門(いずれも今の館山市)の3人が萱野の刑場で処刑されました。他にも飯田長次郎と親しい地代官の行貝(なめがい)弥五兵衛国定・子の行貝弥七郎恒興が百姓への加担で死罪になったと伝えられます。

名主の処刑は正式な裁判によらず川井が独断で行ったため、ようやく評定所にも訴えが取り上げられ、最終的に川井藤左衛門は打首、屋代家は改易となりました。

その際の追訴状は「藤左衛門殿立腹被成、名主内六人無体に御しばり、縄手の儘にて牢舎に被仰付、右六人の内三人(中略)有無の御詮議も無御座死罪に被仰付候段、弐人は生袈裟、壱人は討首、何共御無体成被遊方と奉存候」と経緯を生々しく記しています。

訴状に「房州壱万石村々惣百姓」とあることからこれを「万石騒動」といい、名主3人は地元で「三義民」と慕われ、江戸時代にはすでに『万石騒動日記』がまとめられるとともに、後の『佐倉義民伝』にも影響を与えたとみられます。

また、安房国分寺境内に営まれた「三義民の墓」と萱野の「三義民刑場跡」は、現在、千葉県館山市の指定史跡になっています。

参考文献

『館山市史』(館山市史編さん委員会 館山市、1971年)
『日本庶民生活史料集成』第6巻(森嘉兵衛ほか 三一書房、1968年)
『安房志』(斉藤夏之助 多田屋書店、1908年)

三義民刑場跡の場所(地図)と交通アクセス

名称

三義民刑場跡

場所

千葉県館山市国分99-2

備考

富津館山道路「富津インターチェンジ」から車で10分。国道128号の館山国分郵便局近くの急カーブに「市指定史跡 三義民刑場跡 Execution Site for three ringleader of peasant uprising」と書かれた案内標識が掲出されているため、ここから北に300メートルほど進む。

関連する他の史跡の写真

三義民の墓
地代官行貝弥五兵衛国定弥七郎恒興の墓

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)