島田紋次郎の墓(島田紋次郎と武州世直し一揆)

幕末の10万人規模の大一揆の頭取の墓

2023年5月21日義民の史跡

慶応2年(1866)、横浜開港後のインフレによる米価高騰を契機として、上武一帯の200か村10万人が参加する「武州世直し一揆」が起こり、各地の名主・豪商宅が打ちこわされたり、岩鼻陣屋が襲撃されたりしました。この一揆では武蔵国秩父郡上名栗村(今の埼玉県飯能市)の大工・島田紋次郎が頭取として死罪と決まるものの、判決の時点で既に牢死しています。地元には百姓が密議をした正覚寺や紋次郎の墓が残されています。

義民伝承の内容と背景

江戸幕末の慶応2年(1866)、横浜開港以来のインフレによる米価高騰や天候不順によって、林業で生計を立てていた武蔵国秩父郡上名栗村では日々の食物にも困窮するようになりました。

そこで同村の正覚寺で密議が行われ、同寺の檀家だった宮大工・島田紋次郎が一揆を主唱し、桶屋・新井豊五郎がこれに賛同、さらには多摩郡下成木村(今の東京都青梅市)の組頭で「悪惣」のあだ名があった石灰商人の中村喜左衛門とも連携し、慶応2年(旧暦)6月13日夜から翌朝にかけて、2千人ほどの農民が飯能河原で決起しました。

一揆勢は名主や米屋・質屋・油屋・酒屋などの豪商を中心に、向かった先で米価引下げ、質草の返還、施(ほどこし)米・施金などを要求し、従わない場合は徹底した打ちこわしで臨みました。

彼らは「世直し」を主張したことから「武州世直し一揆」と呼ばれますが、一揆の波はまたたく間に武蔵・上野両国の200か村以上に広がり、合わせて10万人が参加、500軒ほどが打ちこわしの被害に遭いました。

一揆勢はいくつかのルートに分かれ、南は多摩川の築地の渡しまで、東は中山道の大宮・鴻巣・熊谷付近まで、西は秩父・下仁田まで、北は岩鼻陣屋付近にまで展開しています。

これに対して多摩郡では江川太郎左衛門英武配下の農兵や八王子千人同心がゲベール銃で一揆勢を撃退、関東郡代の岩鼻陣屋に向かった一揆勢も幕府役人と高崎藩兵に鎮圧され、6月19日まで7日間にわたる争乱はようやく終息し、農民の死傷者も多数に及びました。

一揆後には首謀者が捕らえられ、慶応3年(1867)、名栗村百姓・島田紋次郎は死罪、同じく新井豊五郎は遠島、下成木村組頭・中村喜左衛門は闕所の上で中追放と勘定奉行から申し渡されますが、すでに島田紋次郎は慶応2年10月に、新井豊五郎は11月に江戸の伝馬町で獄死した後でした。

島田紋次郎らが密談をした正覚寺は今なお地元名栗に残るほか、紋次郎の墓碑も近くの山間地に佇んでいます。

参考文献

『新編埼玉県史』通史編4 近世2(埼玉県 埼玉県、1989年)
『武州世直し一揆』(近世村落史研究会 慶友社、2017年)
『近世武州名栗村の構造』(山中清孝 名栗村教育委員会、1981年)

島田紋次郎の墓の場所(地図)と交通アクセス

名称

島田紋次郎の墓

場所

埼玉県飯能市上名栗地内

備考

首都圏中央連絡自動車道「狭山日高インターチェンジ」から車で40分、「名郷」バス停付近で埼玉県道53号青梅秩父線から分岐する県道73号秩父上名栗線沿いにあります。分岐から県道53号線を秩父方面に150メートルほど進むと擁壁上に墓地が見え、その中に法名「寒窓了山禅定門」と俗名「紋次郎」を刻む自然石の墓碑が建っています。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)