浅川陣屋刑場跡碑(大竹半十郎と浅川騒動)

浅川花火の起源とされる一揆の遺跡

2023年5月29日義民の史跡

寛政10年(1798)、高田藩領である浅川陣屋支配の村々において、大庄屋や駒付役らによる年貢諸役の私的流用に憤った百姓が蜂起する「浅川騒動」が起こりました。藩は大庄屋らを罷免したものの、一揆首謀者として陸奥国白川郡上野出島村(今の福島県白河市)の大竹半十郎を打首としました。現在お盆時期の名物となっている「浅川の花火」は、この「浅川騒動」の犠牲者を追悼する目的で始まったものともいわれわます。

義民伝承の内容と背景

寛政9年(1797)、越後高田藩飛地の陸奥国石川郡浅川村(今の福島県石川郡浅川町)一帯では、春に降雹被害を受けた百姓が年貢減免を要求しますが、庄屋は取次をせずかえって入用金を課す有り様でした。

また、当時は百姓が飼育した馬を市で競売にかける「迫駒制」がありましたが、駒役金のような上納金を通じて中間搾取をしていた駒付役や馬喰への不満も鬱積していました。

寛政10年(1798)正月、白河城下に野犬(又は狼)が出没し、浅川陣屋からも野犬退治のため鉄砲が残らず貸し出されたことから一揆の計画が持ち上がります。

正月22日夜、「よき、鉈、鎌御持参にて御出会可被下候」と書かれた落し文が配られ、24日未明には八幡館(社八幡神社)で大勢が篝火を焚き、鉄砲を打って気勢を上げる事態となりました。

こうして白川・田村・石川・岩瀬4郡百姓による「浅川騒動」が勃発し、北勢1万人・南勢2万人に分かれ、庄屋や駒付役の屋敷を打ちこわし、浅川の城山に立て籠もった上、浅川陣屋にまで迫ります。

領奉行の伊藤勘左衛門は陣屋の役人らとともに出張して百姓らの説得に当たるものの失敗したため、いったん陣屋に退いて防備を固める一方、本藩とともに周辺の白河藩・棚倉藩・三春藩に加勢を要請しました。

陣屋前では悪口雑言して石礫を投げる百姓があったため、領奉行がその場で2、3人を槍で刺殺、他の役人も抜刀して百姓26人が即死し、遺体は人山を築いて晒しものにされた後、永昌寺境内に大穴を掘り埋められました。

程なく百姓を処罰せず、大庄屋や駒付役らは謹慎させ、困窮者に手当を与えるなどの懐柔策が出されたことから一揆勢は解散して領内は平穏を取り戻しました。

しかし数か月後には白川郡上野出島村の半十郎・佐源治・喜曽右衛門の3名が「徒党人」と断定され、うち佐源治は牢死、喜曽右衛門は高田に護送、半十郎は弘法山沿いを流れる社川の橋の袂で翌年に打首となりました。

現在お盆の名物となっている「浅川の花火」は、この「浅川騒動」の犠牲者を追悼する目的で始まったといわれ、戦前は弘法山で打上げが行われていました。

参考文献

『表郷村郷土史』(表郷村郷土史編纂委員会 表郷村教育委員会、1966年)
『矢吹町史』第1巻 通史編(矢吹町 矢吹町、1980年)
『浅川町史』第1巻 通史・各論編(浅川町史編纂委員会編 浅川町、1999年)

浅川陣屋刑場跡碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

浅川陣屋刑場跡碑

場所

福島県石川郡浅川町浅川越巻地内

備考

あぶくま高原道路「玉川インターチェンジ」から車で20分。「弘法山公園」に向かう参道の途中から社川の河原に降りた先にあります。

関連する他の史跡の写真

弘法山公園
永昌寺

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)