先賢・循吏の史跡 豊池神社(林六三郎と建地築堤) 田辺藩郡奉行の林六三郎は、干ばつに悩む丹後国加佐郡上福井村のため、隣村・上東村かみひがしむら(ともに今の京都府舞鶴市)との共同水利として、建地峠たけじとうげでのため池造成を推進しました。「豊池とよいけ」と呼ばれるこのため池は文化9年(181... 2025.03.17 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 本庄重政墓 江戸前期、福山藩水野家に仕えた本庄(本荘)重政は、松永湾を干拓して塩田を開き、昭和に至るまで地域の主要産業となる製塩業の基礎を築きました。延宝4年(1676)に亡くなった重政は、菩提寺の承天寺に葬られましたが、宝暦9年(1759)には地元の... 2024.08.26 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 小林大明神(小林孫四郎政用と柳野呂堤防) 安永8年(1779)に生野代官となった小林孫四郎政用は、領民から「慈愛ノ御代官」と慕われ、円山川と神子畑川の合流部に「柳野呂堤防」を築いて農地を水害から守った事績が伝わっています。人々は堤防上に「小林大明神」の小祠を設けて代官を祀り、後に馬... 2024.08.14 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 小島蕉園翁頌徳碑 徳川御三卿の一つ・田安家の代官として甲斐国(今の山梨県)田中陣屋に赴任した小島蕉園は、善政をもって領民に慕われ、官を辞して後は江戸で医者として生計を立てていました。もとの領民たちは惣代3人を江戸に派遣し、貧しく暮らす蕉園に金百両を贈ろうとし... 2024.08.07 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 全国の幕府代官所・郡代役所の一覧 以下は江戸幕府が全国に開設していた代官所・郡代役所の位置を地図上に打鋲したものです。江戸時代末期の文久3年(1863)を基準としているため、年代によってはこれ以外にも多くの代官所が開設されていました。なお、作図に当たっては、次の文献及び現地... 2024.07.24 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 平山霊神社 広島藩の尾道町奉行となった平山角左衛門尚任(なおずみ)は、寛保元年(1741)の住吉浜埋立により今の尾道港の基礎を築き、感謝した人々から「平山霊神社」の生祠に祀られました。後には「平山市尹紀功碑」の建碑や「尾道みなと祭」の開催も行われるよう... 2024.06.23 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 治水神社(宝暦治水と薩摩義士) 木曽三川の下流域では洪水被害が深刻だったことから、江戸幕府は薩摩藩に御手伝普請を命じ、「宝暦治水」と呼ばれる大掛かりな治水事業に着手しました。工事は宝暦4年(1754)から翌年にかけて行われ、薩摩藩からは総奉行・平田靱負らが現地に送り込まれ... 2024.06.10 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 滝本の代官塚 江戸時代中期、美作国(今の岡山県)の幕府領で代官を務めた重田又兵衛信征のぶゆき・池田仙九郎但季ただすえの両人は、困窮した農村を救済して領民から慕われ、勝北郡北野村(今の勝田郡奈義町)に両人の名を刻む「代官塚」が建てられました。 2024.05.03 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 郡代塩谷の碑 江戸時代後期、塩谷しおのや大四郎正義は19年にわたって豊後国日田郡(今の大分県日田市)の日田代官・西国郡代を務め、小ヶ瀬井路の開削や三隈川の通船工事など、民政面で多くの実績を上げました。塩谷大四郎が郡代解任の後に江戸で亡くなると、日田の人々... 2024.04.27 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 石黒神社 鹿田かった代官の石黒小右衛門政宇まさずみは、宝暦5年(1755)に旭川の大洪水があった際、飢えに苦しむ美作国真島郡向津矢むかつや村(今の岡山県真庭市)の人々を救うため独断で年貢を半減し、幕府の許しが得られないと知ると、その責任を負って自害し... 2024.04.26 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 酒井七左衛門の墓 境川の水害に悩む美濃国(今の岐阜県)の松枝輪中の人々は、尾張藩の代官を通じて築堤を願い出るものの認められず、畑に盛土をして堤防代わりとする「畑繋堤」を自前で築きました。無届けの「畑繋堤」は何度か取払いを命じられていますが、酒井七左衛門が尾張... 2024.04.22 先賢・循吏の史跡
先賢・循吏の史跡 早川代官遺愛碑 江戸時代の天明年間から久世代官・笠岡代官を務めた早川八郎左衛門正紀まさとしは、赤子間引きの禁止や農桑の奨励、学校創設などさまざまな施策で疲弊した農村の復興に尽力し、4度にわたる留任願いが出されるほど領民に慕われました。代官が亡くなると、人々... 2024.04.20 先賢・循吏の史跡