留魂之地碑(河合清右衛門と比留輪山騒動)
三河国渥美郡野田村と赤羽根村(いずれも今の田原市)の両村では、しばしば比留輪山を巡る山論が発生していました。寛文13年(1673)、野田村では幕府に越訴を繰り返し、評定所の裁決で枝打ちなどの権利を認めさせましたが、頭取として河合清右衛門が獄門に処せられました。村では清右衛門の墓を造立するなど丁重に供養を続け、近年には顕彰碑も建てられました。
義民伝承の内容と背景
三河国田原藩領の野田村と赤羽根村では、村境にある比留輪山を巡ってしばしば山論が発生しています。
藩内有数の水田地帯を抱える野田村は、徳川家康がこの地を鹿狩りに訪れて以降、幕府から比留輪山の管理を一任され、下草刈りや松の枝打ちを通じて生産活動に不可欠な肥料や薪を得てきました。
これに対して半農半漁の赤羽根村は、譜代大名の三宅氏が田原藩に転封され比留輪山が藩直轄地になったのを契機に、畑地の新規開墾を藩に願い出て森林面積を減少させたことから、両者の利害が対立したためです。
寛文13年(1673)3月14日、野田村の村役人9人が参勤交代で江戸にいた藩主に直訴するため故郷を出発しますが、藩邸では訴状が受理されなかったため、幕府の老中や寺社奉行に越訴しました。
このときは評定所から国元での解決を命じられ、藩主の帰城を待って8月に藩の裁決を受けたものの、内容に承服せずに多くの村役人が追放や家内闕所となっています。
そこで今度は小前百姓50人余りが江戸に赴き、9月以降、老中や寺社奉行への駕籠訴・駆込訴を執拗に繰り返しました。
その結果として、翌延宝2年(1674)2月、評定所において野田村・赤羽根村の直接対決が行われ、4月12日に裁決があり、比留輪山での下草刈りなどを旧慣のとおり野田村に認めるとともに、既に畑地化された部分を除き以後の開発を禁止する旨が申し渡されました。
こうして野田村は実質的な勝訴を得ることができましたが、一方で藩命に抗ったとして頭取7人のうち清右衛門の身柄を藩主に引き渡し、残りの6人は追放とすることも決められます。
かくして清右衛門は4月22日に野田村札木において打首となり、3日間にわたってその首を晒されました。
野田村惣百姓は村のために犠牲となった清右衛門に感謝し、蓮台付きの立派な墓を築いて供養しました。
現在、札木界隈には清右衛門を顕彰する「留魂之地碑」が、そしてかつての比留輪山一帯を見下ろす雨ヶ森山頂には「頭墓」として複製の墓碑と経緯を記した副碑が建てられています。
参考文献
『赤羽根町史』(赤羽根町史編纂委員会編 赤羽根町、1968年)
留魂之地碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
留魂之地碑
場所
愛知県田原市野田町西海道地内
備考
東名高速道路「豊川インターチェンジ」から車で60分。国道259号沿い「仁崎口」バス停脇に碑が建っている。この北東400メートルの山麓に墓が見える。