宝暦義民碑(三原定次郎と郡上一揆)
宝暦4年(1754)、美濃国(今の岐阜県)郡上藩による定免法から検見法への変更に反対した領民が八幡城下で強訴したのを皮切りに、この「宝暦郡上一揆」は以後、幕府老中への駕籠訴、評定所での吟味を経て、領主の金森家が改易される宝暦8年(1758)に至るまで続きました。一揆の頭取として郡上郡前谷村(今の郡上市)の三原定次郎ら多数の百姓が死罪・遠島・追放などの刑に処せられ、現地には今でも彼らを供養するための墓碑や祠、顕彰碑などが見られます。
義民伝承の内容と背景
財政難の郡上藩は、宝暦4年(1754)に年貢の徴収を検見法に変更して増収を図ろうとしたため、南宮神社で傘連判状を交わした2千人以上の百姓が8月10日に八幡城下の御蔵会所に強訴しました。藩は百姓の訴えを認め、金森左近・渡辺外記・粥川仁兵衛の3家老が免状を交付し事態は沈静化しました。
ところが、翌宝暦5年(1755)7月には庄屋らが美濃国羽栗郡笠松村(今の羽島郡笠松町)の笠松陣屋に呼び出され、幕府美濃郡代・青木次郎九郎に検見法への承諾を迫られています。これは藩主の縁故を利用し、幕府の権威を借りて検見法を強行しようとする策略で、ここに一揆は再燃することになりました。
同年8月12日、百姓有志が山深い那留ヶ野(今の郡上市)の地で密談し、傘連判状に署名の上、願書を携え江戸藩邸に向かいましたが、藩の別邸に監禁されて目的を果たせませんでした。
この後は藩の取締りが厳しくなり、百姓間でも要求貫徹を目指す「立者」と藩に寝返る「寝者」の対立が生まれたことから、事態の打開を図ろうとした前谷村定次郎・切立村喜四郎・那比村藤吉・東気良村善右衛門及び長助(いずれも今の郡上市)の5人が江戸に赴き、11月26日に登城途中の幕府老中・酒井忠寄への駕籠訴を決行するものの、訴人たちが庄屋預かりで幽閉されるだけで、問題はうやむやにされたままに終わりました。
宝暦7年(1757)12月、「立者」と「寝者」の対立がいよいよ激しくなる中、一揆の中心人物と見られていた西気良村(今の郡上市)甚助が藩によって捕えられ、正式な裁判を経ないで処刑されてしまいます。翌宝暦8年(1758)2月には、一揆の資金集めをしていた帳元の歩岐島村(今の郡上市)四郎左衛門の屋敷に藩の足軽や寝者が乱入して帳面を奪ったことから、百姓3千人と足軽ら50人余りが乱闘となる「歩岐島騒動」も発生しました。
同年4月2日、市島村孫兵衛・二日町村伝兵衛・歩岐島村治右衛門・剣村藤次郎・東俣村太郎右衛門、向鷲見村弥十郎(いずれも今の郡上市)の6人は、江戸で目安箱に訴状を投じる「箱訴」を決行し、ようやく訴状が幕府評定所に取り上げられました。歩岐島騒動の混乱に乗じて庄屋のもとから脱出した前谷村定次郎と切立村喜四郎の両人も、密かに江戸に赴いて箱訴に協力した後、北町奉行の依田和泉守正次のもとに自首しています。
この「宝暦騒動」と同時期に、郡上藩の役人と結託して専横を尽くした越前国大野郡石徹白上村(今の岐阜県郡上市白鳥町)の白山中居神社の神主・石徹白豊前が村人から訴えられる「石徹白騒動」が起きたこともあり、両騒動の責任を問われた郡上藩主・金森頼錦は改易され、関連して幕府老中・本多正珍らも免職となりました。
一方で百姓側でも宝暦8年(1758)12月26日、前谷村定次郎・歩岐島村四郎左衛門・寒水村由蔵が江戸において打首となり、その首級は塩漬けにされて翌年正月に穀見野刑場に晒されました。切立村喜四郎にも獄門の判決が下るものの、既に11月の段階で牢死しています。さらに那比村藤吉・二日町村伝兵衛・市島村孫兵衛ら10人が死罪、ほかに遠島・追放や牢死者多数を伴いながら、一連の「郡上一揆」はその幕を閉じることとなりました。
郡上市の夏の風物詩となっている「郡上おどり」は、金森氏改易後の郡上藩を支配した青山氏が藩内融和のために奨励したのが起源といわれ、市内の至るところに義民の墓や顕彰碑が建てられています。平成12年(2000)には神山征二郎監督、緒方直人主演(前谷村定次郎役)の『郡上一揆』として映画化もされています。
参考文献
『詳説郡上宝暦義民伝』(白鳥町教育委員会編 白鳥町、1985年)
『郡上宝暦騒動史』(白石博男 岩田書院、2005年)
宝暦義民碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
宝暦義民碑
場所
岐阜県郡上市八幡町柳町地内
備考
東海北陸自動車道「郡上八幡インターチェンジ」から車で5分。郡上八幡城の登城路を一方通行に注意してホテル積翠園前に至る。