本郷村善九郎の墓(万葉善九郎と大原騒動)
江戸時代の飛騨国(今の岐阜県)には幕府直轄地として高山陣屋が置かれていましたが、飛騨代官(郡代)である大原彦四郎・亀五郎父子の悪政に対しては、明和年間・安永年間・天明年間の3度にわたって一揆が発生しています。このうち検地強化を巡る「安永騒動」は最も規模が大きく、領内1万人が参加するするものの、吉城郡本郷村(今の岐阜県高山市)の万葉善九郎ら頭取が獄門となるなど、百姓側に多大な犠牲を出しました。現地には一揆犠牲者を供養するための墓碑や供養碑などが数多く残されています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の飛騨国は幕府直轄地として高山陣屋が置かれていましたが、父子2代にわたり代官(郡代)となった大原彦四郎紹正(つぐまさ)・亀五郎正純の時代には、「大原騒動」と呼ばれる百姓一揆が相次いで発生しています。
(1)明和騒動
明和2年(1765)に飛騨代官になった大原彦四郎は、小坂郷(今の下呂市)・阿多野郷(今の高山市)といった山間部の人々の生計の途である御用木の伐出しを中止したため、大古井村(今の高山市)百姓・伝十郎ら代表が江戸に赴き嘆願活動を行いました。
また、年貢米金納の基準を相場に関係なく定額とする永久石代を導入しようとしたため、ここでも領内百姓の反発を招きました。
明和8年(1771)12月11日、対応を協議するため飛騨三郡の村役人らが飛騨国分寺で集会を開くと、一部が暴徒化して高山町の商家などを打ちこわしました。
代官は直ちに鎮圧を図り、数十人を投獄しましたが、立て続けに「安永騒動」が起きたこともあって判決は遅れ、安永3年(1774)8月16日、大古井村伝十郎を死罪としました。
(2)安永騒動
安永2年(1773)、代官の大原彦四郎は年貢率を引き上げ定免制を採用するとともに、元禄以来となる新開の田畑の検地を始めました。
「嘘言方便も世界の宝なり」と放言する代官は、事前の説明に反して古田畑にも容赦なく検地を行ったため、まず飛騨三郡の名主らが代官所に嘆願し、これが拒否されると牧ケ洞村(今の大野郡清見村)善十郎ら代表が江戸に上って老中・松平武元への駕籠訴を行いますが、逆に名主らは大原代官に威迫され、直訴は百姓の総意ではないとする口書を取られてしまいます。
これを受けて百姓らは本郷村善九郎を中心に小割堤で、あるいは宮村(今の高山市)太七を中心に一之宮鬼川原で集会を開き、高山陣屋にも押し寄せて年貢の延納などを要求しましたが、最終的に両者は合流して1万人規模の「一之宮大集会」となり、ほぼ飛騨全土にわたる大規模な一揆へと発展しました。
代官がこの旨を江戸に報告すると、幕府の要請で近隣の郡上藩などが出兵し、一揆勢の本拠があった水無神社の神域に逃げ込んだ百姓にも鉄砲を射掛けるなどして、死者・負傷者多数を出す大惨事となりました。
安永3年(1774)、百姓に加担した水無神社神主の山下和泉・森伊勢と無数河村(今の高山市)名主長次郎、宮村太七の4人が磔、18歳の若き指導者・本郷村善九郎が獄門などの極刑に処せられました。
善九郎が処刑前に16歳の妻かよに宛てた遺書には、次のように「拙者義もかくごいたし申し候、其の方にもあきらめ成さる可く」と暇乞いの文言がみえ、復元された高山陣屋内にも展示されています。
本郷村善九郎の手紙
尚々申上候私のともだち
の衆中様えも、右の趣伝可被下候
一、書置申候事、承候得ば
風便あしく有之候得ば、私にも
相はて申候様に相聞候間、
拙者義もかくご
いたし申候、其方にも
あきらめ可被成、此世にては
あひ不申候、然共一
度あひ申候えば残心も
無御座候、此上御両
親様随分/\
太切に奉頼上候、扨
其方にもをふりどのと
中能相くらし
可被成候、扨又随分/\
松之丞様太事に被
成可被下候、且又御見
舞方へ御礼を
可被申候、此間も鉈
見村与十郎殿より柿一わ、
石神長重郎殿よりは一わ
被下候、御礼可被申候、此上
にも随分/\仕合能くて、ゑんとを、
つい方にも相成候得ば、
罷帰り御目に懸可
申候、乍然し罷かい
る事は、しやうふしやう
にて御座候得ば、いとまごい一筆入候、
その上いとまごいの
ため申入度如此御
座候。 以上
十二月一日
善九郎
おかよどの
なお、私の友人たちにもこのことを伝えておいてください。
一筆書き置きます。聞くところによると、悪い噂があって私も死罪になりそうだとのことです。私自身は覚悟していますので、あなたもあきらめてください。この世ではもうお会いすることはないでしょう。それでも死ぬ前に一度お会いできれば心残りはないのですが、こうなった以上はご両親を大切にしてくださるようお願いします。またあなたもおふり殿と仲良く暮らしてください。そして松之丞様も大切にしてください。それからお見舞をいただいたことにお礼を言っておいてください。この間も鉈見村の与十郎殿から柿1把、石神長十郎殿からも1把もらったのでお礼をしてください。もし幸いにも遠島(島流し)や追放で済めば立ち帰ってお目にかかりたいと思いますが望み薄ですので、この世の暇乞いに一筆差し入れます。以上、ご覧の通り最後のお別れを申し上げます。
12月1日
善九郎
おかよ殿
この後代官の大原彦四郎は検地で1万石を打ち出した功労で布衣郡代に昇進しますが、妻は夫の苛政を諌めて自害、自身も眼病で失明するなど不幸が重なり、神仏にすがって水無神社や桜山八幡宮に寄進した石灯籠が残ります。
(3)天明騒動
大原彦四郎没後、第13代の飛騨郡代には子の大原亀五郎が就任しますが、彼は私利私欲に走り、使途不明の「一条金」6千両余りを村々から借り入れたり、年貢の過納金を返還せず名主を通じて密かに献納させたりしたため、領民の怨嗟の的となりました。
飛騨国益田郡跡津村(今の下呂市)出身で高山陣屋の取次役だった広瀬屋清七郎らは大原代官の不正を暴くために密議を重ね、老中・松平定信や幕府巡検使への直訴を行いました。
寛政元年(1789)12月25日に広瀬屋清七郎は死罪を申し渡されるものの、大原亀五郎が八丈島に流罪となったのをはじめ、多くの役人が処罰を受けました。
参考文献
『村方騒動と世直し』下(佐々木潤之介編 青木書店、1973年)
『岐阜県史』通史編 近世下(岐阜県編 岐阜県、1972年)
『高山市史』下(高山市編 高山市、1953年)
本郷村善九郎の墓の場所(地図)と交通アクセス
名称
本郷村善九郎の墓
場所
岐阜県高山市上宝町本郷1425番地
備考
「本郷村善九郎の墓」は、旧上宝町の本覚寺本堂裏手の境内墓地西側、秋葉神社参道の石段を登って左手のひな壇上にあります。隣接しておかよと秀(子供)の墓もあります。自動車の場合は中部縦貫自動車道「高山インターチェンジ」から50分、公共交通機関の場合はJR高山本線「飛騨国府駅」から濃飛バス(国府・上宝線)乗車45分、「本郷」バス停下車、徒歩5分です。