宗吾大明神(小木曽猪兵衛と南山一揆)

百姓の犠牲なく要求を実現した南山一揆の拠り所

2023年5月16日義民の史跡

安政6年(1859)、幕府領から白河藩領となり年貢負担が増大した信濃国南山郷では、今田村(今の長野県飯田市)庄屋・小木曽猪兵衛らの指導のもとに百姓が蜂起し、代官の罷免と天領並み相場での石代納を獲得しました。この「南山一揆」は百姓側の犠牲者を出さずに目的を達成し、現地には一揆の精神的支柱となった「宗吾大明神」、一揆の記念碑「南山之碑」などが残されています。

義民伝承の内容と背景

江戸時代末期の伊那谷地方は飯田藩領や幕府領、旗本領が入り組んでおり、現在の飯田市の天竜川東部から泰阜村にかけての一帯に当たる南山郷36か村も、弘化3年(1846)には幕府領から陸奥国白河藩領へと変わっています。

白河藩では飛び地となるため現地に市田陣屋(原町陣屋)を置いて村々を支配しましたが、務川忠兵衛が郡奉行になると、異国船出没のため物入りと称し、年貢を3年後に米納に切り替えることや、猶予期間中の金納は原町近隣の米相場に準拠することを百姓側に申し渡しています。

幕府領時代、年貢は金納で安い相場が適用されていたのと比較すると、百姓の負担は一気に増大し、しかも藩が米商人と結託した相場操縦で年貢増収を図っていたことも理由となり、安政2年(1855)には南山郷の代表者が陣屋を訪れ、天領時代の旧慣に戻すよう嘆願書を提出しました。

奉行は彼らを入牢や手鎖の処分として苛斂誅求をやめなかったため、伊那郡今田村庄屋・小木曽猪兵衛らは、さらに江戸表で門訴や箱訴によって嘆願を繰り返しますが、やはり目的を果たすことはできませんでした。

小木曽猪兵衛は一揆で刑死した後に佐倉藩主の堀田氏に祟って没落に追い込んだ佐倉宗吾の霊を祀る「宗吾大明神」を地元の大願寺境内に勧請して精神的支柱とし、惣代のもと隊列を組み規律ある行動をするよう百姓らを指導した上で、安政6年(1859)12月27日、ついに南山郷の百姓1,600人余りによる一揆を決行しました。

南山郷は天竜川を渡河して八幡原に至り、その後に飯田城下を通り抜けなければ市田陣屋に行くことができない地理的条件にあったため、陣屋を目指した一揆勢は、途中で飯田藩の役人に足止めされました。

飯田藩からの通報により出張してきた郡奉行・務川忠兵衛は、「無双の強情者」といわれた北沢伴助ら百姓惣代と言争いになり、結局は飯田藩の仲介もあって、幕府領並みの相場での石代金納を認めたため、一揆勢も解散することになりました。

この「南山一揆」により務川忠兵衛は罷免され、後任の牧田平兵衛は百姓側から改めて嘆願書を提出させ要求を認めるとともに、惣代の北沢伴助らを徒党強訴の罪により1か月の入牢としましたが、過去の一揆の事例を研究した猪兵衛の采配により、百姓側からの処刑者を出さずに目的を達することができました。

この事実を顕彰するため、明治25年(1892)には大願寺境内に「南山之碑」が建てられ、一揆の経緯や南山郷の功労者の名前が刻まれました。

参考文献

『長野県史』通史編 第6巻(近世3)(長野県編 長野県史刊行会、1989年)
『八右衛門・兵助・伴助』(深谷克己 朝日新聞社、1978年)
『南山一揆』(平沢清人 伊那史学会、1970年)

宗吾大明神の場所(地図)と交通アクセス

名称

宗吾大明神

場所

長野県飯田市龍江6822番地

備考

三遠南信自動車道「千代インターチェンジ」から車で2分。大願寺本堂北側の丘陵上の覆屋の中に鎮座する3つの祠のうちの1つ。

関連する他の史跡の写真

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北沢伴助の墓
市田陣屋跡

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)