宝暦杉(宝暦義民と源五騒動)
宝暦6年(1756)、物価高と飢饉にあえぐ能登国宇出津組(今の石川県鳳珠郡能登町)の百姓が十村役・源五宅を打ちこわす「源五騒動」が起こり、中斉村甚左衛門ら7人が罪を負い獄死しました。宝暦8年(1758)にも宇出津組で年貢米の不足が摘発され寺分村勘十郎らが獄死しており、地元には彼らを「宝暦義民」として顕彰する多くの石碑が建てられています。
義民伝承の内容と背景
宝暦5年(1755)、加賀藩では幕府から15年を限って藩札の発行が認められたため、金沢城下に札座を設け、正銀の流通停止と藩札の本格運用が段階的に進められました。しかし、当初は商人が藩札を信用せず物が買えない、偽札が出回るなどのトラブルがあったほか、次第にインフレーションも亢進し、領内百姓は物価高騰による生活苦にあえぐようになります。
翌年の宝暦6年(1756)には能登で大洪水と飢饉が発生し、多くの死者を出す被害に見舞われたため、7月6日・9日に五十里村など宇出津組の百姓千人が加賀藩十村役の源五宅を襲撃する「源五騒動」が起こりました。
同年、この騒動の首謀者として五十里村治平、中斉村甚左衛門らあわせて7人が捕縛され、罪を一身に被って家財没収や入牢となり、宝暦7年(1757)には7人全員が獄死します。
続く宝暦8年(1758)、「源五騒動」について加賀藩が取調べをする過程で宇出津組の年貢米800石の不足が見つかり、その責を負って寺分村勘十郎、五郎左衛門分村太郎次郎、十郎原村藤次郎が投獄され、翌年には同様に勘十郎と太郎次郎が牢死しています。なお、藤次郎は老齢のため倅が代牢し、本人死亡とともに釈放されています。
現地には勘十郎と太郎次郎の両肝煎が、入牢に当たりもう村へは戻れないと観念して涙ながらに植えたと伝わる杉の木が「宝暦杉」として残るほか、各地に「宝暦義民」のための石地蔵や供養碑、顕彰碑などが建立されています。
参考文献
『柳田村史』(柳田村史編纂委員会編 柳田村、1975年)
『柳田村の集落誌』(原田正彰編著 石川県鳳至郡柳田村役場、1977年)
宝暦杉の場所(地図)と交通アクセス
名称
宝暦杉
場所
石川県鳳珠郡能登町五郎左エ門分竹20番地
備考
のと里山海道「のと里山空港インターチェンジ」から車で20分。「寺分」バス停から平等寺真向かいの道を進むと、「宝暦義民碑」の傍らにそびえている。