菅原神社(吉岡村市兵衛と頸城質地騒動)
享保7年(1722)、幕府の流地禁止令を曲解した越後国(今の新潟県)頸城郡の百姓たちが、質流れの田畑を実力で取り戻そうとする「頸城質地騒動」が起こりました。幕府は禁止令を撤回したものの、質置人惣代の頸城郡吉岡村(今の上越市)百姓・市兵衛ら多数が処刑されました。現地にはかつて多くの質置人たちが集まったという菅原神社が鎮座しています。
義民伝承の内容と背景
江戸幕府は寛永20年(1643)に「田畑永代売買禁止令」を定め、農民が田畑を売買することを禁止してきましたが、実際には田畑を質入れした末に返済が滞って質流れとなる、売買同然の事例が多発していました。
そこで幕府では老中・井上正岑の裁許を経て、享保7年(1722)4月に流地禁止令を発布します。その内容は、返済が滞った農地は元金に年利1割半を加えた額を皆済すれば何年過ぎていても元の地主に請け戻させること、享保2年以降の質流れは元金を全額差し出せば請戻しを認めること、などを骨子とするものでした。
流地禁止令の噂を聞いた越後国頸城郡吉岡村の百姓・市兵衛ら質置人は、村々に廻文を送って相談の上、この機会を捉えて代官所に訴状を提出しました。当時の頸城郡内では質入れされた農地を別の小作人が耕作する「別小作」の形態が主だったため、これを「直小作」に改めて質置人みずからが耕作し、その収入をもって元利を年賦で返済させてほしいという訴えでした。
しかし、質置人の中には法令を曲解し、質取人の屋敷に乱入して米を強奪したり、他人の小作を妨害したりする者が現れました。代官・小野粂五郎は百姓の「心得違」として取締りを行うものの、騒動は拡大して享保8年(1723)には質置人・質取人双方が江戸の評定所に出向き訴訟合戦をする事態に発展します。
この騒動は質置人が侘び証文を入れて一旦は落着しますが、享保9年3月になって再燃し、吉岡村市兵衛らの呼びかけで岡之嶺(菅原神社裏の丘陵)に頸城郡内150か村の質置人約2千人が集まり、それぞれ質入地に乱入して勝手に田打ちを始めました。このとき市兵衛は高い場所に畳を敷き、酒肴を振る舞いながら「地所之義ハ此方へ奪取、皆々手作可致候」と演説しています。
ここに至って幕府は流地禁止令を撤回するとともに、享保9年(1724)閏4月、越後国内の幕府直轄地35万石のうち33万石を高田・長岡・新発田・会津・館林各藩の預地として、地元に対応を委ねることにしました。
特に高田藩は騒動に関与した農民を一斉に捕縛し、享保10年(1725)3月11日、質置人惣代の吉岡村市兵衛ら7人を今泉河原で磔とし、その他多数を死罪・遠島などとする厳罰主義で臨みました。拷問により牢死した者も55人を数え、市兵衛も刑の執行時には既に亡くなっていたといいます。
参考文献
『中頚城郡誌』第2巻(新潟県中頚城郡教育会編 新潟県中頚城郡教育会、1940年)
菅原神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
菅原神社
場所
新潟県上越市清里区菅原108番地
備考
上信越自動車道「上越高田インターチェンジ」から車で20分。新潟県道198号青柳高田線沿いの入口交差点に標識がある。