五十志霊神社(大竹与茂七と与茂七騒動)

五十志霊神社
大庄屋を訴え拷問の末処刑された名主を祀る

2023年5月18日義民の史跡

正徳2年(1712)、越後国蒲原郡中之島村(今の新潟県長岡市)名主・大竹与茂七は、大庄屋の不正を新発田藩に訴えるものの、大庄屋へ非義を申し掛け徒党強訴に及んだとして翌年獄門となりました。後に与茂七を供養するための「与茂七地蔵」などが建てられたほか、藩も祟りを恐れて与茂七を祠に祀り、現在は「五十志霊神社」に合祀されています。

義民伝承の内容と背景

越後国蒲原郡中之島村の名主であった大竹与茂七は、宝永元年(1704)6月の大雨で刈谷田川の堤防が決壊した際、自らが所有する山の木々を伐採して堤防を補強し、流域の村々を水害から救いました。

その際不足分を補おうと中之島組大庄屋の星野儀兵衛や新発田藩の所有する山林からも無許可で木々を伐採したため、後に大庄屋から訴えられますが、藩御用役・高久助之進の裁断により無事放免されることとなりました。

正徳2年(1712)、先の裁判の結果に不満を抱いた大庄屋の星野儀兵衛は、凶作の際に御救米金として貸した金が未納だとして大竹与茂七を再び藩に訴え、一方の与茂七も不当な雑用銀を百姓から取り立てたと大庄屋を訴え、双方の訴訟合戦となります。

詮議は長期に及びましたが、かつて訴訟で与茂七を救った高久が病死すると、家老の梶舎人が自説を押し張るようになり、次第に与茂七不利の形勢となります。

そして正徳3年(1713)6月2日、「庄屋江非義申懸徒党を結候」罪科により、大竹与茂七と脇川新田(今の長岡市)名主の広島善助が獄門となり、新発田城外の中曽根刑場から中之島に届けられた首級は、与板街道にしつらえた獄門台に3日にわたって晒されました。

他にも中興野村名主小助、池之島村名主三太兵衛倅安左衛門、灰島新田名主喜平太(いずれも今の長岡市)の3人が「加担之罪科」により死刑となっています。

大竹与茂七は釘抜きで歯を抜かれる拷問にも屈せず、自らを罪に陥れた人間を末代まで祟ると言い残し、借金は返済したはずという主張が容れられなかった無念を「今はよしあらぬ濡れぎぬ身に負へど清き心は知る人ぞ知る」の辞世に詠んだと伝えられます。

これを「与茂七騒動」といいますが、その後の享保4年(1719)には新発田城下で千軒余りを焼く大火が起こるなどの不幸があり、人々は与茂七の祟りによる「与茂七火事」と噂し合いました。

与茂七の遺体は密かに埋葬され、今に首塚(願勝寺・光正寺)や胴塚(椿沢寺)の伝説が残るほか、与茂七が梟首された場所にある「与茂七地蔵」は妻が建てたものといわれます。

新発田藩でも与茂七の祟りを恐れて祠に祀り、現在は諏訪神社の末社・五十志霊神社の祭神(与茂七さま)として合祀され、火防の神として慕われています。

参考文献

『越後佐渡農民騒動』(新潟県内務部編 新潟県内務部、1930年)
『新発田市史』上巻(新発田市史編纂委員会編 新発田市、1980年)
『中之島村史』上巻(中之島村史編纂委員会編 中之島町、1988年)
『見附市史』上巻1(見附市史編集委員会編 見附市、1981年)

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五十志霊神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

五十志霊神社

場所

新潟県新発田市諏訪町1丁目8番9号

備考

日本海東北自動車道「聖籠新発田インターチェンジ」から車で10分。諏訪神社境内西側、自動車進入口近くの末社。近くには平成5年建立の「義民大竹与茂七の碑」が建っている。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)