江戸時代の大阪では天満市場が野菜類の取引を独占していましたが、摂津国西成郡難波村(今の大阪府大阪市浪速区)の農民らは直売を認めるよう役所に嘆願を繰り返しました。文化6年(1809)、大坂代官・篠山景義のあっせんにより両者の示談が成立し、村内での野菜直売が認められたことから、後に代官の功績を偲び「篠山神社」が建てられました。
伝承の内容と背景
しかし、生産者である農民にとってみれば、わざわざ遠く離れた天満市場まで運ぶには手間がかかることから、実際には「立売」とよばれる直接販売も行われ、しばしば天満市場の訴えにより町奉行所から「差留」を命じられています。
特に、天明3年(1783)4月には、天満市場の訴えを受けた町奉行所により、大坂城の城下町に当たる大坂三郷の町中に「青物直売買御差留」の触書が出され、指定場所以外での立売が全面的に禁止されており、以後も数回にわたって同様の禁令が出ています。
こうした中で、摂津国西成郡難波村の農民らは、正徳4年(1714)以降のほぼ100年近くにわたり、町奉行所に対して立売を認めるよう求める嘆願を繰り返していました。
文化4年(1807)になると、難波村では立売禁止で「惣百姓一同難渋」しているとして、正徳4年以来の免状(年貢割付状)写など長文の証拠書類を添えて代官所に嘆願したため、この一件は町奉行所に進達され、翌文化5年(1808)には両者の「対談」に持ち込まれました。
このとき大坂代官・篠山十兵衛景義があっせんに尽力したことから、文化6年(1809)6月23日、ようやく天満市場と難波村との間に示談が成立し、厳しい条件付きながらも最終的に難波村の農民たちの野菜直売が公的に認められるようになりました。
直売が認められたのは大根・菜類・にんじん・冬瓜・ねぶか(長ねぎ)・白瓜・南瓜(かぼちゃ)・西瓜・若牛蒡(ごぼう)・わけぎ・芋類・茄子(なす)・かぶらの13品目で、一荷に満たない端(はした)荷に限り、土付きのまま、村内の青物商人に対して売り渡すのが条件でした。
篠山景義は文化6年4月には江戸廻り代官へ転属となっていますが、大阪を去るに当たり難波村の嘆願が認められるよう大坂西町奉行に懇請していたといわれ、難波村に続いて翌文化7年(1810)には木津村でも同様の直売が認められるなど、農民の負担軽減に大きな貢献を果たしました。
感謝した当時の農民たちは彼を生祠(生き神様)に祀ったといいますが、明治13年(1880)には難波八阪神社の境内に「篠山神社」が建立され、明治26年(1893)には「世の人のあふ(仰)ぐもたかき功こそ巌とともに朽ちせざりけれ」(原文は変体仮名を使用)という歌を刻んだ記念碑もつくられました。現在でも毎年9月26日に同社の例祭が斎行され、神職とともに市場関係者らが集まって功績を偲んでいます。
なお、篠山景義はその後の文化13年(1816)に佐渡奉行に就任したものの、在職中に任地で亡くなったため、墓は佐渡市相川下山之神町の曹洞宗総源寺にあります。
参考文献
- 『西成郡史』(大阪府西成郡役所編 大阪府西成郡役所、1915年)pp.1040-1047ほか
- 『天満市場誌』上巻(永市寿一 天満青物市場、1929年)pp.196-199ほか
- 『浪速区史』(川端直正編 浪速区創設三十周年記念事業委員会、1957年)pp.145-146
- 『大阪市史』第2(大阪市参事会編 清文堂出版、1965年)pp.329-330
- 『天満青物市場史料』上(大阪市史史料第28輯)(大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会、1990年)pp.11-18
- 『町人の都大坂物語』(渡邊忠司 中央公論社、1993年)pp.180-185
- 『江戸時代の代官群像』(村上直 同成社、1997年)pp.135-136
篠山神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
篠山神社
場所
大阪府大阪市浪速区元町2丁目9-4
関連情報
https://nambayasaka.jp/?page_id=275
難波八阪神社>境内案内 06-6641-1149(難波八阪神社)
備考
「篠山神社」は、獅子頭の外観をした巨大な舞台があることで知られる難波八阪神社の境内西側の鳥居脇、植込みの中に鎮座しています。木造の小祠の右手には記念碑があり、さらに手前には「篠山神社の御由緒」と書かれた案内板が掲げられています。公共交通機関でのアクセスは、JR関西本線「JR難波駅」、近鉄・阪神電鉄「大阪難波駅」又は南海電鉄・大阪メトロ「なんば駅」で降りて、それぞれ南へ徒歩10分ほどです。マイカーでのアクセスは、阪神高速1号環状線「なんば出口」から3分、国道25号の「元町3北」交差点を西へ曲がってすぐです。
関連する他の史跡の写真

一揆の原理 (ちくま学芸文庫 コ 44-1) 