治水神社(宝暦治水と薩摩義士)

治水神社

先賢・循吏の史跡

木曽三川の下流域では洪水被害が深刻だったことから、江戸幕府は薩摩藩に御手伝普請を命じ、「宝暦治水」と呼ばれる大掛かりな治水事業に着手しました。工事は宝暦4年(1754)から翌年にかけて行われ、薩摩藩からは総奉行・平田靱負らが現地に送り込まれましたが、難工事の過程で多くの犠牲者を出しました。彼らは「薩摩義士」として語り継がれ、戦前には「治水神社」が創建されました。

伝承の内容と背景

かつて揖斐川・長良川・木曽川からなる「木曽三川」の下流域では、これらの河川の本流・支流が入り乱れ、洪水被害が頻発していました。輪中の村々から「水損難儀仕候」と嘆願を受けた幕府は、薩摩藩に御手伝普請を命じ、宝暦4年(1754)2月、「宝暦治水」と呼ばれる木曽三川の大掛かりな治水工事に着手しました。

薩摩藩は家老の平田靱負ゆきえを総奉行として藩士947人を派遣しますが、現地の情報不足のほか、膨大な工事資金や資材の調達、幕府役人や地元民との軋轢などの多くの困難に直面し、早くも4月には永吉惣兵衛と音方貞淵の2人の藩士が亡くなっています。

『岐阜県治水史』は、この2人は幕府の横柄な態度に憤慨して4月14日の同日付けで自刃した「最初の犠牲者」であるとし、証拠として遺体が埋葬された伊勢国桑名町(今の三重県桑名市)海蔵寺に伝わる「松平薩摩守家来、永吉惣兵衛、腰物にて致怪我相果候に付、於貴寺葬申度」とある証文を掲げています。幕府を憚って「怪我」としていますが、実際には「腰物」、すなわち刀で割腹したというのが同書の解釈です。

2月に始まった第1期工事では、前年の洪水による破堤部分を復旧する「急破普請」、毎年定例の修繕を意味する「定式普請」をあわせて行い、雪解け水で川が増水する5月には竣工しましたが、9月下旬からの第2期工事は、河川の流路を変更する「水行普請」のような、より難易度の高い内容が求められていました。特に揖斐川と木曽川の合流部を堤防で締め切って分流化する、延長約1キロメートルに及ぶ「油島締切堤」の築堤は難航し、先に亡くなった永吉・音方の2人をあわせ、この間「申訳のため」に切腹した者52人、病死した者33人を数えたとされています。

他にも水行奉行みずゆきぶぎょうである高木新兵衛の家臣・内藤十左衛門、御小人目付おこびとめつけ・竹中伝六の幕府方2人が自刃し、さらに『輪ノ内町史』では高木内膳の下人・舛屋伊兵衛が大榑川洗堰おおぐれがわあらいぜき工事の際に人柱として身を投げたという伝説も紹介しています。

こうしてすべての工事が完了したのは宝暦5年(1755)5月のことですが、工事費が当初見込みを大きく超える40万両にまで膨らんだ上、藩士から多数の犠牲者を出した責任を取るため、総奉行の平田靱負は同年5月25日の早朝、美濃国安八郡大牧新田(今の岐阜県養老郡養老町)の役館において切腹したといわれ、同27日に薩摩藩の祈願所である山城国伏見町(今の京都府京都市)大黒寺に葬られました。

この「宝暦治水」の犠牲者たちは後に「薩摩義士」と呼ばれ、明治33年(1900)、内閣総理大臣・山県有朋篆額の「宝暦治水碑」が、「油島締切堤」竣工後に堤上に植えた日向松が並木に成長したという千本松原の地に建立され、次いで昭和13年(1938)には、同地に平田靱負を祭神とする「治水神社」が創祀されました。

また、木曽三川の流域には、平田靱負を含む薩摩藩士24人の墓がある海蔵寺、遺骨を納めた瓶が発掘された「浄土三昧」と境内墓地をあわせ27人の位牌や過去帳が残る天照寺、藩主・島津重年による現地督励の2日後に亡くなった黒田唯右衛門の墓が発見された常栄寺など、ゆかりの寺院がいくつもあります。

もっもと、近年では羽賀祥二(2000)に見るとおり、平田靱負を筆頭に50人以上に及ぶ切腹伝説には史料的な根拠がなく、明治時代に国による治水事業を要求する運動の中で「薩摩義士」の口碑が「事実疑ヒナキコト」として喧伝され、その後の顕彰が進むにつれ通説として定着した経緯があったことが指摘されています。切腹後しばらくは息のあった本人に尋問した際の聞取書が残る内藤十左衛門のようなケースを除き、伝説と史実の違いには留意しておく必要があります。

参考文献

『宝暦治水と薩摩藩士』(伊藤信 鶴書房、1943年)
『岐阜県治水史』上巻(岐阜県編 岐阜県、1953年)
『輪之内町史』(輪之内町史編集委員会編 輪之内町、1981年)
羽賀祥二「治水の神の誕生-『宝暦薩摩義士』と木曽三川流域-」『歴史学研究』No.742(歴史学研究会編 績文堂出版、2000年)

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治水神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

治水神社

場所

岐阜県海津市海津町油島407-1

備考

「治水神社」は、長良川と揖斐川を隔てる背割堤の上を走る三重県道・岐阜県道106号桑名海津線沿いに鎮座しています。
公共交通機関でのアクセスは、養老鉄道養老線「多度駅」から海津市コミュニティバス(木曽三川公園線)に乗車して約10分、「木曽三川公園」バス停で下車し、そこから徒歩で南に10分ほどです。
車の場合は東名阪自動車道「長島インターチェンジ」を降りて約10分で、木曽三川公園の南口に近い県道220号安八海津線沿いに車両出入口があり、無料で駐車することができます。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)