義民供養の石地蔵(伊深義民事件)

義民供養の石地蔵
越訴百年を経て領主が造立したと伝わる石地蔵

2023年5月25日義民の史跡

天和2年(1682)、旗本・佐藤継成の知行所だった美濃国加茂郡伊深村(今の岐阜県美濃加茂市)では、不作で困窮した百姓らの代表が江戸に上りに年貢減免を幕府目付に越訴し、うち多数が牢死又は死罪となりました。現地には「伊深義民の碑」と称する供養碑や、後代の領主が建てた「義民供養の石地蔵」が残されています。

義民伝承の内容と背景

天和元年(1681)、美濃国加茂郡伊深村では不作が続いて生活に困窮する百姓が増えたにもかかわらず、年貢率は他領よりも重い六ツ(6割)だったことから、村の代表者数十人が江戸に上り、領主である旗本・佐藤続成の屋敷に年貢減免を訴えました。

これに対して領主の佐藤家から救米や年貢延納などの提案があったものの百姓らは承服せず、翌年の天和2年(1682)3月26日、幕府目付・松平縫殿頭に越訴しました。

領主の佐藤家では、不作の年は用捨引をしているし、これまで安い利率で金子を貸し付けてきたとして「百性(百姓)偽ヲ書付申候」と訴状の内容に真っ向から反駁し、6月の評定所の判決では「地頭へ難題を申し掛け」たとして訴訟に関与した32人が入牢させられました。

別の史料では最終的に34人が入牢し、うち19人が牢死したことや、打首や追放になった者があったことが窺われますが、その一方で庄屋や組頭といった村役人らは訴訟に関わらなかったために処罰はありませんでした。

この「伊深義民事件」は長らく地域の伝説に過ぎなかったものの、近年になって領主である佐藤家の目代を務めていた小田島家の文書が解き明かされたことにより史実であることが明らかとなりました。

事件から100年以上を経た文化8年(1811)、佐藤家第9代当主の佐藤信顕は、もと処刑場があった場所に「為濃州加茂郡伊深村陣屋代々之代官及惣百姓先祖代々有縁無縁一切諸精霊菩提」と刻んだ石地蔵を建立し、さらに文政7年(1824)に先祖の法要を営んだ際にも禅徳寺において施餓鬼を行い、これら義民たちの霊を弔ったといいます。

文政9年(1826)には独特の書体で「南無阿弥陀仏」と刻んだ徳本行者の名号碑も佐藤家の寄進により建立され、今も正眼寺の境内に残されています。

参考文献

『妙法山正眼禅寺誌』(正眼寺誌編纂委員会編 正眼寺、1954年)
『美濃加茂市史』通史編(美濃加茂市編 美濃加茂市、1980年)
『日本人の宗教と庶民信仰』(圭室文雄編 吉川弘文館、2006年)

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義民供養の石地蔵の場所(地図)と交通アクセス

名称

義民供養の石地蔵

場所

岐阜県美濃加茂市伊深町地内

備考

東海環状自動車道「美濃加茂インターチェンジ」から車で10分。伊深交流センター向かいの禅徳寺参道口に所在する。

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関連する他の史跡の写真

❶伊深義民の碑

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)