新潟

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義民の史跡

長恩院石塔(田辺小兵衛の義民伝承)

正保2年(1645)、越後国蒲原郡馬堀村(今の新潟県新潟市)庄屋・田辺小兵衛は、干魃に悩む村人のために「馬堀用水路」を開削したものの、幕府役人から独断で工事を行った責任を問われ自殺したといいます。宝暦2年(1752)、村では小兵衛の遺徳を偲...
義民の史跡

生田万の墓碑(生田万の乱)

天保8年(1837)、大坂で起こった「大塩平八郎の乱」に触発され、天保の飢饉による惨状を憂いた国学者・生田万が同志を募り、越後国柏崎町(今の新潟県柏崎市)にあった桑名藩の柏崎陣屋を襲撃しました。この「生田万の乱」は長岡藩の加勢により鎮圧され...
義民の史跡

菅原神社(吉岡村市兵衛と頸城質地騒動)

享保7年(1722)、幕府の流地禁止令を曲解した越後国(今の新潟県)頸城郡の百姓たちが、質流れの田畑を実力で取り戻そうとする「頸城質地騒動」が起こりました。幕府は禁止令を撤回したものの、質置人惣代の頸城郡吉岡村(今の上越市)百姓・市兵衛ら多...
義民の史跡

義民岡村権左衛門碑(権左衛門騒動)

幕府領から長岡藩領への村替えにより年貢負担が増大した越後国三島郡川西組9か村(今の新潟県長岡市)は、寛政3年(1791)、浦村組頭・岡村権左衛門を頭取として代官所に年貢減免を訴えたところ、強訴徒党の罪により権左衛門のみが討首獄門の極刑に処せ...
義民の史跡

高橋源助の墓(高橋源助と首賭けの筒)

天和元年(1681)、旱害に苦しむ村人のために越後国(今の新潟県)曽根組割元庄屋・高橋源助が用水路を開削したものの、反対者の妨害に遭い通水せずに打首となりました。人々は墓標代わりに榎の木を植えて首塚としていましたが、昭和に入って改めて石祠が...
義民の史跡

明和義人顕彰之碑(涌井藤四郎と新潟明和騒動)

明和5年(1768)、越後国新潟町(今の新潟県新潟市)で長岡藩が賦課した御用金に反対する大規模な打ちこわしが発生し、これを契機に町中惣代の湧井藤四郎らを中心とする住民自治が生まれました。この「新潟明和騒動」では最終的に藤四郎らが獄門となるも...
義民の史跡

五十志霊神社(大竹与茂七と与茂七騒動)

正徳2年(1712)、越後国蒲原郡中之島村(今の新潟県長岡市)名主・大竹与茂七は、大庄屋の不正を新発田藩に訴えるものの、大庄屋へ非義を申し掛け徒党強訴に及んだとして翌年獄門となりました。後に与茂七を供養するための「与茂七地蔵」などが建てられ...
義民の史跡

憲盛法印大供養塔(遍照坊智専と佐渡明和一揆)

明和4年(1767)、風雨と虫害のため不作となった佐渡国(今の新潟県佐渡市)では、佐渡代官所の苛政に反発した農民らが一揆を企てたものの未遂に終わりました。この「佐渡明和一揆」では、年貢の延納などの要求が認められたものの、願書をしたためた遍照...
義民の史跡

本間太郎右衛門供養塔(本間太郎右衛門と佐渡寛延一揆)

寛延3年(1750)、佐渡国(今の新潟県佐渡市)雑太郡辰巳村百姓・本間太郎右衛門は江戸に出向き、佐渡奉行所の悪政を掲げた訴状を勘定奉行に提出しました。結果として佐渡奉行は免職となったものの、太郎右衛門も死罪となったため、その菩提を弔うための...
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中川善兵衛の墓(中川善兵衛と佐渡一国一揆)

天保9年(1838)、佐渡国(今の新潟県佐渡市)を訪れた幕府巡見使に対し、佐渡一国惣代として羽茂郡上山田村百姓・中川善兵衛が佐渡奉行の苛政を訴えたものの、奉行所により捕縛されてしまいました。これを契機に数万人が善兵衛の釈放を要求し、小木町の...