関東地方

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義民の史跡

下田隼人翁碑(下田隼人の直訴事件)

江戸時代前期、小田原藩は財政悪化を埋め合わせるため領内の総検地を実施するとともに、新税として麦租を導入しようとしました。万治3年(1660)、相模国足柄上郡関本村(今の神奈川県南足柄市)名主の下田隼人は、小田原藩主・稲葉正則に麦租反対を直訴...
義民の史跡

久末義民地蔵(久末義民の門訴事件)

元禄6年(1693)、武蔵国橘樹郡久末村(今の神奈川県川崎市)が領主・佐橋内蔵之助の屋敷に年貢減免の門訴をしたところ、百姓19人が殺害される事件が起こりました。後に年貢は引き下げられましたが、村では犠牲者を供養するため数次にわたって地蔵尊を...
義民の史跡

藤尾社(平藤治の義民伝承)

寛政6年(1794)、武蔵国多摩郡高幡村(今の東京都日野市)の平藤治は、困窮百姓のため親類の名主に年貢減免を掛け合い入牢し、釈放前日に毒殺されたと伝わっています。現地には平藤治を祀る「藤尾社」が鎮座しています。
義民の史跡

義民六人衆の墓(義民六人衆と新井宿村越訴事件)

延宝5年(1677)、武蔵国荏原郡新井宿村(今の東京都大田区)の間宮太郎兵衛ら6人が、旗本・木原義永の悪政を幕府に直訴しようとして未遂に終わり、全員が木原邸で斬首される事件が起こりました。後に親類の間宮藤八郎は、両親の墓という名目でこれら「...
義民の史跡

宗吾霊堂(木内惣五郎と佐倉宗吾一揆)

承応2年(1652)、下総国印旛郡公津村(今の千葉県佐倉市)の名主であった木内惣五郎は、佐倉藩の悪政を将軍に直訴し、処刑されたと伝わっています。その後、佐倉藩堀田家は改易されたことから惣五郎の祟りと噂され、『佐倉義民伝』として多くの文芸のモ...
義民の史跡

山神源治宮(椎名源治の義民伝承)

寛文2年(1662)、下総国香取郡牧野村(今の千葉県香取市)の椎名源治は地頭・黒川左馬の苛政を公儀に訴え、生埋めにして処刑されたといわれています。宝暦3年(1753)、椎名源治は石祠に祀られ、現在では社殿もつくられて「山神源治宮」となってい...
義民の史跡

七里ヶ渡し(布施村弥五郎の義民伝承)

元禄16年(1703)、下総国相馬郡布施村(今の千葉県柏市)百姓・弥五郎は、年貢減免を領主に直訴しようとして打首に処せられたといいます。弥五郎が処刑された場所は「弥五塚」と呼ばれ、命日に村で供養が行われていましたが、いつの間にか所在がわから...
義民の史跡

義人大多和四郎右衛門自刃之地碑(大多和四郎右衛門の切腹伝承)

寛永20年(1643)上総国山辺郡東金町(今の千葉県東金市)の名主・大多和四郎右衛門は、飢饉に際し佐倉藩の米蔵を無断で開き、百姓に米を分け与えると、その責を負って切腹したと伝えられています。戦後、四郎右衛門が切腹した石切橋の辺りには「義人大...
義民の史跡

義民市東刑部左衛門之墓(市東刑部左衛門の切腹伝承)

慶長10年(1605)、上総国山辺郡東金(今の千葉県東金市)にいた元武士で、土着して名主となっていた市東刑部左衛門は、年貢減免を認めない検田使を斬り捨て、米倉の蓄えを農民に分け与えた上で、その責を負って切腹して果てたと伝承されています。市東...
義民の史跡

杢右衛門の碑(最首杢右衛門の門訴)

寛延3年(1750)、上総国夷隅郡深堀村(今の千葉県いすみ市)組頭の最首杢右衛門は、御用金の用捨願いのため旗本・阿部正甫の江戸屋敷で門訴して捕らえられ、寺院の助命嘆願もむなしく屋敷内で斬首されました。地元には杢右衛門を供養するための墓碑など...
義民の史跡

三義民刑場跡(三義民と万石騒動)

正徳元年(1711)、安房国(今の千葉県)北条藩は川井藤左衛門を家老に登用して無理な年貢増徴を図り、領内百姓による藩邸門訴や幕府老中への駕籠訴を招きました。頭取3人は川井の独断により吟味もなく死罪となりましたが、後に幕府評定所の詮議で川井も...
義民の史跡

諸岡太左衛門の墓(諸岡太左衛門の門訴)

天明5年(1785)、上総国天羽郡金谷村(今の千葉県富津市)百姓・諸岡太左衛門が在地役人の横暴を旗本・白須政雍(まさちか)の江戸屋敷に門訴し、年貢増徴などの取止めが決まったものの、入牢の末に獄死しました。菩提寺の華蔵院には太左衛門の墓が営ま...