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義民の史跡

遺跡義民佐七一族累代之墓(義民腹切り佐七の伝承)

江戸時代の享保年間、常陸国那珂郡三反田村(今の茨城県ひたちなか市)庄屋の平沢佐七は、飢饉に際して水戸藩の郷蔵を無断で開放し、百姓に穀物を分け与えた上で切腹したといいます。佐七の塚には明治時代に霊堂が建...
義民の史跡

義民地蔵(磯部村清太夫と山外郷一揆)

寛延2年(1749)、笠間藩は凶作下で定免法への切替えを強行したため、常陸国茨城郡磯部村(今の茨城県桜川市)名主で磯部神社神主の清太夫ら山外郷27か村1千人が笠間城下で強訴に及びました。藩は一旦は要求...
義民の史跡

北郷開樋殉難者之碑(鳴尾の義民と天正北郷樋事件)

天正19年(1591)、干魃に悩む摂津国武庫郡鳴尾村(今の兵庫県西宮市)は枝川上流の瓦林村(同市)から無断引水し、両村百姓の乱闘事件に発展しました。結果として鳴尾村の取水権は認められたものの、豊臣政権...
義民の史跡

浅川陣屋刑場跡碑(大竹半十郎と浅川騒動)

寛政10年(1798)、高田藩領である浅川陣屋支配の村々において、大庄屋や駒付役らによる年貢諸役の私的流用に憤った百姓が蜂起する「浅川騒動」が起こりました。藩は大庄屋らを罷免したものの、一揆首謀者とし...
義民の史跡

戸塚義民の墓(戸塚村善兵衛と戸塚騒動)

寛延2年(1749)、陸奥国白川郡戸塚村(今の福島県東白川郡矢祭町)では2年続きの不作で百姓が困窮し、塙代官所に年貢延納や金米借用を強訴する「戸塚騒動」が勃発しました。翌寛延3年(1750)2月には代...
義民の史跡

菅野八郎自刻之碑(菅野八郎と信達世直し一揆)

慶応2年(1866)、幕府が生糸・蚕種の売買に改印制を導入して冥加金を徴収しようとしたことに反対し、陸奥国信夫・伊達両郡の百姓が蜂起し、役人と結託した商家の打ちこわしを行いました。この「信達世直し一揆...
義民の史跡

義民斎藤彦内墓所(斎藤彦内と寛延信達一揆)

寛延2年(1749)、冷害による凶作に見舞われた桑折代官所支配68か村の百姓は、年貢減免を求めて代官所を取り囲む強訴に及びました。この「寛延信達一揆」の後、年貢は引き下げられましたが、陸奥国伊達郡長倉...
義民の史跡

柿の木地蔵(中尾重兵衛と篠山藩越訴)

元和7年(1621)、篠山藩は不作につき柿などの生木物(なりきもの)の上納を領内に命じました。飢えに苦しむ百姓を見かねた丹波国多紀郡二ノ坪村(今の兵庫県丹波篠山市)の中尾重兵衛らが京都所司代に越訴し、...
義民の史跡

義民太郎右衛門霊堂(佐藤太郎右衛門と享保信達一揆)

享保14年(1729)、幕府代官・岡田庄太夫による定免法採用と年貢増徴に反発し、陸奥国信達地方(今の福島県)の百姓が代官所に強訴し、江戸でも佐原村名主・佐藤太郎右衛門が箱訴に及びました。太郎右衛門は捕...
義民の史跡

南山義民之碑(南山義民と会津御蔵入騒動)

享保5年(1720)、生産性が低く年貢やその輸送の負担が大きかった会津御蔵入領の百姓らが江戸に上り負担軽減を直訴する「会津御蔵入騒動」が起こりました。結果として一帯は会津藩預地となり要求は実ったものの...
義民の史跡

首切り地蔵(吉田長次兵衛と磐城平藩元⽂一揆)

元文3年(1738)、磐城平藩の課税強化に反対し、領内百姓2万人が城下に押し寄せ町会所などを打ちこわす「磐城平藩元文一揆」が起こりました。藩は百姓の要求を受け入れ、藩主の内藤政樹は幕府から日向国(今の...
義民の史跡

大酬恩碑(高梨利右衛門と信夫⽬安事件)

寛文6年(1666)、末期養子で領地を半減された米沢藩が預地の出羽国屋代郷(今の山形県東置賜郡高畠町・米沢市)で激しい収奪を行ったため、二井宿村肝煎の高梨利右衛門が「信夫目安」を信夫代官所に提出し、さ...
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