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義民の史跡

平井庄屋太兵衛碑(平井村太兵衛と松山藩越訴)

寛文8年(1668)、宇陀松山藩では用人頭による政策のために百姓が難渋し、大和国宇陀郡平井村(今の奈良県宇陀市)庄屋・太兵衛らが江戸に出向いて藩主・織田長頼に直訴に及びました。しかし、藩主は殿中で恥辱...
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梅ぼし半十郎観音(松岡半十郎と市川騒動)

万延元年(1860)、福知山藩の専売制強化に憤る義賊・松岡半十郎が産物会所を襲い、直後に大規模な百姓一揆が勃発しました。この一揆は年貢増徴や専売制強化により藩財政の改革を進めていた責任者・市川儀右衛門...
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伏見義民小林勘次碑(小林勘次と伏見町越訴)

元和4年(1618)、淀川の船銭が値上げされ、伏見の商人や旅人が難儀するのを見た山城国伏見町(今の京都府京都市)の薪炭商・小林勘次は、江戸に出向いて幕府に直訴し、船銭を従来通りとする朱印状を獲得します...
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義民の史跡

大石義民の碑(庄屋彦治と富川村越訴)

慶長18年(1613)、膳所藩の重税に悩む近江国粟太郡富川村(今の滋賀県大津市)庄屋・彦治と弟の源吾は、鈴鹿峠を通る幕府巡検使に直訴し、重税は免除されたものの、兄弟ともに磔刑に処せられました。大正8年...
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人頭税石(蒲戸砂川と多良間騒動)

1854年、琉球国の多良間島(今の沖縄県宮古郡多良間村)では役人が不正に税を取り立てたことから、蒲戸砂川(かまどうるか)ら5人が王府に直訴状を提出する「多良間騒動」が起こりました。結果として役人は処罰...
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伏見義民事蹟(文殊九助と天明伏見騒動)

天明5年(1785)、山城国伏見町(今の京都府京都市)の元町年寄・文殊久助ら7人は、伏見奉行・小堀政方による御用金賦課などの悪政を寺社奉行に直訴しました。小堀正方は罷免され、目的は果たされるものの、7...
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保民祠(土川平兵衛と近江天保一揆)

天保13年(1842)、幕府による検地の不正に憤慨した近江国甲賀・野洲・栗太3郡の百姓4万人が蜂起する「近江天保一揆」が勃発します。本陣を取り囲まれた見分役人は三上山の洞窟に逃亡し、一揆勢は検地の「十...
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置塩神社(滑甚兵衛と播磨寛延一揆)

凶作や御用金賦課により百姓の負担が増大した播磨国(今の兵庫県)姫路藩領では、寛延元年(1748)から翌年にかけて1万人規模の全藩一揆が発生し、鎮圧後に飾西郡古知之庄村滑(今の姫路市)の甚兵衛が磔となる...
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平尾代官所跡(西谷村又兵衛と竜門騒動)

大和国吉野郡龍門郷(今の奈良県吉野郡吉野町・宇陀市)15か村は旗本・中坊広風の知行所でしたが、出役(代官)の浜島清兵衛が増税を強行しようとしたため、文政元年(1818)、西谷村又兵衛ら6百人が平尾代官...
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戸谷新右衛門の墓地(戸谷新右衛門と高野枡一揆)

享保5年(1720)、紀伊国伊都郡(今の和歌山県)高野山領の年貢の不正徴収に関連して、島野村庄屋・戸谷新右衛門が幕府に越訴し是正されたものの、帰郷後に石子詰で処刑されたという伝説があります。現地には新...
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東村勘右衛門碑(松田勘右衛門と鳥取藩元文一揆)

元文4年(1739)、凶作にもかかわらず請免制による厳しい年貢取立てが行われた鳥取藩領では、5万人規模の惣百姓一揆「元文一揆」が勃発し、藩は郡代の米村所平を御役御免にするなどして事態の収拾を図りました...
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宅和伊助翁神霊碑(宅和伊助と神門郡強訴)

享保17年(1732)、出雲国神門郡松寄下村庄屋・伊助と荒木村庄屋・源左衛門(いずれも今の島根県出雲市)は、蝗害による年貢減免を松江藩庁に訴えました。しかし、検見のために出張してきた藩役人が到着するよ...
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