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先賢・循吏の史跡

沢君遺愛之碑

江戸時代、尾張国中島郡(今の愛知県稲沢市)は湿気の多い土地柄のため百姓は難儀をしていましたが、尾張藩の清須代官となった沢園兵衛は、須ヶ谷川の開削を進めるなどしてこの窮状を救いました。地元では沢園兵衛を祠に祀るとともに、「沢君遺愛之碑」を建て...
先賢・循吏の史跡

頼杏坪充糧碑

広島藩儒として知られる頼杏坪は、備後国(今の広島県)三次郡の代官などを歴任し、荒廃した農村の立直しにも取り組んでいます。神社で敬老会を催し民心の掌握に努めるとともに、飢饉対策として領民に実のなる柿の木を植えさせました。3千本の植樹が成就した...
先賢・循吏の史跡

五穀神社

筑後国(今の福岡県)久留米藩では、夏物成の増税を契機に「享保の一揆」が起こりましたが、家老・稲次因幡正誠の決断により、百姓側の犠牲者を出さずに事態の収拾が図られました。この一件で藩主と不和になった稲次因幡は家禄を没収され、蟄居先であえなく病...
先賢・循吏の史跡

安藤神社

伊予国(今の愛知県)宇和島藩の支藩・吉田藩では、寛政5年(1793)、紙専売制強化に反対する1万人規模の「武左衛門一揆」が勃発しました。吉田藩家老・安藤儀太夫(安藤継明)は一揆勢と交渉しようとするものの成功せず、家老の中でただ一人、失政の責...
先賢・循吏の史跡

恩田木工民親の墓

財政改革の試みがことごとく失敗した信濃国(今の長野県)松代藩において、宝暦7年(1757)に勝手方御用を命じられた家老の恩田民親は、「相談」を重視し人心の掌握に努めながら、年貢先納や御用金賦課の中止、博奕や賄賂の禁止、年貢月割上納制の導入な...
先賢・循吏の史跡

橋本祐三郎首塚

美濃国(今の岐阜県)岩村藩の代官であった橋本祐三郎は、凶作に苦しむ農民に同情して年貢の延納を認めたものの、公金取扱上の不正を疑われて死罪に処せられたと伝えられます。現地には今も「橋本祐三郎首塚」が建ち、恵那市史跡に指定されています。
先賢・循吏の史跡

大原幽学遺跡

農村の荒廃が進んだ江戸時代後期、下総国香取郡長部ながべ村(今の千葉県旭市)の招聘を受けた農政学者・大原幽学は、先祖株組合の創設や耕地整理などの画期的な取組みを通じて村の立直しに成功しました。しかし、後に幕府の嫌疑を招いて押込百日の処罰を受け...
先賢・循吏の史跡

藤江監物父子墓所

享保9年(1724)、日向国(今の宮崎県)延岡藩の家老・藤江監物は、郡奉行の江尻喜多右衛門に命じて臼杵郡出喜多村(今の延岡市)の灌漑事業に着手しますが、難工事により出費がかさみ、享保16年(1731)には軍資金流用の嫌疑を受けて獄死してしま...
義民の史跡

義民田坂市良右衛門碑(田坂市良右衛門の義民伝承)

江戸時代末期の安政年間、岩国藩領の周防国(今の山口県)玖珂郡では、代官が会所に客人を集め贅沢にふけっていました。代官を諌めた田坂市良右衛門は流罪となりますが、村民が家老に訴え出たため釈放されました。後に市良右衛門は庄屋の助役にあたる刀祢に任...
義民の史跡

義民清兵衛之碑(市原清兵衛の直訴事件)

寛政12年(1800)、丹波国多紀郡市原村(今の兵庫県丹波篠山市)の清兵衛は、篠山藩の出稼ぎ禁止令で杜氏らが困窮していると藩主・青山忠裕に直訴し入牢するものの、禁令は享和2年(1802)年に緩和されました。近代には丹波杜氏の救世主として清兵...
義民の史跡

白井半左衛門供養塔(白井半左衛門の義民伝承)

享保16年(1731)、丹波国多紀郡福住村(今の兵庫県丹波篠山市)庄屋の白井半左衛門は、私費をもって福住の集落に灌漑・防災用水を開削しましたが、藩に無断の工事であるとして大庄屋に訴えられ、篠山藩により死罪闕所に処せられました。現地には白井半...
義民の史跡

平井庄屋太兵衛碑(平井村太兵衛と松山藩越訴)

寛文8年(1668)、宇陀松山藩では用人頭による政策のために百姓が難渋し、大和国宇陀郡平井村(今の奈良県宇陀市)庄屋・太兵衛らが江戸に出向いて藩主・織田長頼に直訴に及びました。しかし、藩主は殿中で恥辱を与えたとして立腹し、連座を含めて5人が...