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義民の史跡

素盞嗚神社(徳永徳右衛門と福山藩天明一揆)

天明6年(1786)、備後国(今の広島県)福山藩領では、地方巧者・遠藤弁蔵の重税路線に耐えかねた百姓が蜂起し、年末にいったん沈静化するものの翌年になって再燃、庄屋宅の打ちこわしや隣藩・岡山藩への越訴を行いました。この「福山藩天明一揆」では、...
義民の史跡

孝子庄右衛門誕生地碑(山口与十郎と芝村騒動)

宝暦3年(1753)、大和国(奈良県)十市郡の芝村藩預地では百姓が高率の年貢に苦しみ、減免を求めて京都町奉行に越訴に及びました。結果として村々の負担は減少したものの、多数の百姓が牢死したほか、常盤村庄屋・彦市が死罪、八条村庄屋・与十郎らが遠...
義民の史跡

治兵衛堂(工藤治兵衛と大保木騒動)

江戸時代前期の寛文4年(1664)、米が穫れず難儀をしていた石鎚山麓の村々では、年貢米の銀納を求め、中奥山庄屋・工藤治兵衛らを総代として、西条藩主の一柳直興に直訴に及びました。しかし、願いは聞き届けられなかったばかりか、工藤治兵衛とその倅5...
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三義民の碑(村上平兵衛と西条三万石騒動)

宝暦3年(1753)、伊予国(今の愛媛県)西条藩では年貢を引き上げて財政難を打開しようとしたところ、これに反対する領内百姓らが加茂川原に集まり、藩庁に強訴を行いました。これを「西条三万石騒動」といいますが、西条藩は一揆を解散させた後、頭取と...
義民の史跡

本田又左衛門・石坪万右衛門紀功碑(本田又左衛門と享保の強訴)

享保19年(1734)、凶作下で年貢増徴を行った福知山藩では、城下に多数の百姓が詰め掛ける「享保の強訴」が発生しました。このとき藩は百姓の要求を認め、穏便な解決が図られましたが、10年後、唐突に取調べがはじまり、頭取のうち既に病死していた丹...
義民の史跡

富貴神社(吉松仁右衛門父子冤罪一件)

江戸時代中期のこと、石見国柳村(今の島根県鹿足郡津和野町)の蔵方・吉松仁右衛門は、上納紙を巡る庄屋の不正を代官に告発し、藩主にも直訴しようとして津和野城下に至りました。仁右衛門は延享2年(1745)に処刑されますが、以後城下で火災が相次いだ...
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天保大一揆発祥之地碑(吉部村弥右衛門と防長大一揆)

天保2年(1831)、長州藩の専売制強化などへの不満から、周防・長門(今の山口県)両国の約10万人が参加する全藩一揆「防長大一揆」が発生し、各地の庄屋宅などを打ちこわして回りました。一揆は藩兵により鎮圧され、吉部村畔頭・片山弥右衛門らが誅罰...
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天草四郎時貞の墓碑(益田時貞と島原の乱)

寛永14年(1637)、過酷な徴税とキリシタン迫害に耐えかねた島原・天草の民衆3万7千人が益田四郎を総大将に蜂起し、原城に籠城しましたが、幕府軍の総攻撃の前に全滅しました。今日でも現地にはこの「島原の乱」犠牲者の供養塔をはじめとするいくつか...
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八竜天神社(高松八郎兵衛と久留米藩大一揆)

宝暦4年(1754)、久留米藩の人別銀賦課に端を発して、数万人規模の百姓が参加する全藩一揆「久留米藩大一揆」が勃発します。藩は人別銀を撤回するものの、責任追及のため300人以上を捕縛、御原郡大庄屋・高松八郎兵衛はじめ37人を処刑しました。八...
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赤尾丹治翁顕徳碑(赤尾丹治と文化一揆)

岡藩から起こった「文化大一揆」の影響を受け、文化9年(1812)、豊前国(大分県)でも井堰工事に係る加免や新税賦課に反対する百姓が蜂起し、庄屋宅などを打ちこわしました。この一揆の首謀者として下赤尾村丹治らが処刑され、近代以降、墓碑や顕彰碑が...
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源右衛門・市三郎の墓(小和田組源右衛門と恵蘇郡一揆)

天明6年(1786)、備後国(今の広島県)恵蘇郡で飢饉と村役人の不正を理由に百姓が蜂起し、およそ5千人が山王原に集結しました。広島藩が願書を受け取り年貢減免などを約束したため解散しましたが、後に頭取として小和田組源右衛門らが獄門となりました...
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二義少年碑(松原清介と長野村百姓一揆)

長州藩の益田氏給地となっていた周防国長野村(今の山口県山口市)は重税や課役に苦しみ、代官に訴えても叱責を受けるのみでした。そこで宝永7年(1710)、庄屋の子である松原清介と友人の常田角左衛門が藩主に直訴し、願意は認められたものの、2少年と...