西与一左衛門の碑(代官・西与一左衛門と海津浜の石積)

西与一左衛門の碑 先賢・循吏の史跡
琵琶湖畔の波除石垣を築いた代官の碑
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近江国高島郡の海津浜(今の滋賀県高島市)では、高波により宅地や道路が冠水する被害がしばしば生じていたことから、甲府藩領の代官であった西与一左衛門は、元禄16年(1703)におよそ1.2キロメートルにわたる波除けの石積を築きました。後年、西与一左衛門に感謝した人々は碑を建て、法会を営むようになったということです。

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伝承の内容と背景

江戸時代のこと、近江国高島郡の東端に当たる海津浜の一帯は、琵琶湖を経て大津に至る船運を支える港町として、また西近江路(北国街道)の途次にある宿場町として栄えていました。

しかし、町並みが琵琶湖の湖岸に接していることから、大風や高波があるたびに琵琶湖の水が宅地や道路に押し寄せ、生活が成り立たなくなる被害を受けていたことも事実です。

元禄14年(1701)、高島郡内の甲府藩領の代官となった西与一左衛門は、水害に苦しむ人々のため、費用の銀35貫を幕府から借り受けて、元禄16年(1703)、湖岸におよそ1.2キロメートルにわたる波除石垣を築き、町を水害から守りました。

西与一左衛門はそのほかにも、寛文2年(1662)の大地震のため土砂で埋まり不漁となった知内川について、40年ぶりとなる元禄15年(1702)、実態に合わせて川役として課されていた税金を減免するなどの仁政を行ったといいます。

西与一左衛門は宝永2年(1705)に信州代官に転任し、宝永6年(1709)ごろ亡くなったといいますが、後年、彼に感謝した地元の人々は、西浜村(今の高島市)の蓮光寺境内に「西与一左衛門の碑」を建立し、毎年3月15日に法会を営むようになりました。

現在、この石積や街道筋に並ぶ江戸時代の町家、共同の水場であるイケなどを含めた海津浜一帯の景観は、文化財保護法に基づく重要文化的景観「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」に選定され、保全措置が講じられています。

参考文献

『高島郡誌』(滋賀県高島郡教育会編 滋賀県高島郡教育会、1927年)pp.318-319
『マキノ町誌』(マキノ町誌編さん委員会編 マキノ町、1987年)p.491

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西与一左衛門の碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

西与一左衛門の碑

場所

滋賀県高島市マキノ町西浜46

備考

「西与一左衛門の碑」は、西近江路沿いの真宗大谷派「蓮光寺」境内、本堂右手の菩提樹の末にあります。寺院の入口には「西与一左衛門の碑」と題する案内板も掲げられています。マイカーでアクセスする場合は、北陸自動車道「木之本インターチェンジ」から30分ほどで到着でき、境内に駐車可能です。公共交通機関を用いる場合は、JR湖西線「マキノ駅」から徒歩10分、又は「マキノ駅」から高島市コミュニティバス(国境線)乗車4分、「西浜」バス停下車、徒歩1分まです。

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