小島蕉園翁頌徳碑

小島蕉園翁頌徳碑

先賢・循吏の史跡

徳川御三卿の一つ・田安家の代官として甲斐国(今の山梨県)田中陣屋に赴任した小島蕉園は、善政をもって領民に慕われ、官を辞して後は江戸で医者として生計を立てていました。もとの領民たちは惣代3人を江戸に派遣し、貧しく暮らす蕉園に金百両を贈ろうとしましたが、蕉園が頑なに受け取らなかったため、代わりに生祠を建てて蕉園を神として祀りました。この生祠は大正年間に復興され、併せて「小島蕉園翁頌徳碑」も建てられました。

伝承の内容と背景

徳川御三卿の一つ・田安家は甲斐国山梨郡・八代郡の63か村を支配するため、山梨郡一丁田中村(今の山梨市)に田中陣屋を置いていました。この領内では寛政4年(1793)に「太枡騒動」という大規模な百姓一揆が起き、綿塚村(今の甲州市)重右衛門、金田村(今の笛吹市)重右衛門が獄門、熊野村(今の甲州市)勘兵衛が死罪となっています。訴状を見ると、田安家が「太枡」と呼ばれる従来より大きな枡を計量に用いるなどの「新規御仕法」で年貢の収奪強化を図ったため、百姓が「困窮」したことが一揆の原因となったことがわかります。

「太枡騒動」の後、当然ながら陣屋役人と百姓との関係は険悪になり、寛永10年(1798)に一揆当時の山口彦三郎から名和市十郎へと代官が交替しますが、はかばかしい成果を上げることができませんでした。そこで文化2年(1805)、書記上席の小島蕉園が田中代官として抜擢され、甲斐国へ赴任することとなりました。

小島蕉園は回村の際に『孝経』を講義したり、孝行者を表彰するなどして風俗の矯正に努めたほか、「甲斐ノ地ハ砂交リノ土ニテ性二能合ヿよくあうことト見ユ」(『蕉園漫筆』)として、他の作物が実らない場所に甲斐の風土に合った甘草を植え付けさせました。俗に「甲斐八珍果」といわれる甲斐名産のぶどう・なし・もも・かき・くり・りんご・ざくろ・くるみの8種類の果実や種実も、小島蕉園が栽培を奨励したといわれています。

このように甲斐国の田安領内で善政を敷いた小島蕉園でしたが、民生上の献策を他の役人に妨害されて十分に実行できなかったことから、文化4年(1807)、病気を口実にして自ら代官を辞職しました。その後は江戸の市中を回って薬を売ったり、江戸時代初期の名医・永田徳本の医術を学んで医者として生計を立てていましたが、患者から必要以上のお金を取らなかったため、その暮らしぶりは借金をするほど貧しかったといいます。

文政元年(1818)、甲斐国の旧領民たちは金100両を出し合い、荒井甚五左衛門・佐藤祥三・今泉綱右衛門の3人を惣代として、江戸本郷竹町(今の東京都文京区)にあった小島蕉園宅に届けさせました。3人の思わぬ来訪を受けた蕉園は、「今日挙杯情更多」と酒肴を出してもてなしたものの、100両のお金は頑なに受け取りませんでした。

やむなく甲斐国に100両を持ち帰った3人は、63か村の名主たちを集めて事情を話しました。彼らは相談の上、この100両をもとに一町田中村の白山神社境内に小島蕉園の生祠を建て、生きながら神に祀り上げることでその徳を讃えたということです。

小島蕉園はその後の文政6年(1823)、徳川御三卿の一橋家から招請を受け、遠江国榛原郡波津村(今の静岡県牧之原市)にあった波津陣屋の代官となります。老中・田沼意次の失脚に伴う相良藩の廃藩により一橋領となった同地でも、前任代官の馬場新兵衛の治下で百姓一揆が勃発し、民生の安定が求められていました。蕉園は年貢の徴収方法を検見法から定免法に改めたり、田沼家の旧領復帰に合わせて百姓に年貢金を還付するなどして、民心の掌握に努めました。

小島蕉園は文政9年(1826)、任地において56歳で亡くなり、同地に葬られましたが、その墓も相良の領民たちが拠金して建てたものです。御前崎を見通す波切不動の下にある蕉園の墓は、今では牧之原市の指定史跡となっています。

一方の山梨県側においても、大正7年(1918)、水害で流された生祠を田中陣屋の鎮守である水上稲荷社境内に復興するとともに、田安徳川家当主の徳川達孝さとたかの篆額による「小島蕉園翁頌徳碑」を建てており、今でもその姿を見ることができます。

参考文献

『小島蕉園伝』(文部省編 国定教科書共同販売所、1918年)
『甲斐に於ける小島蕉園伝』(水上文淵 三井清、1919年)
『本邦生祠の研究 生祠の史実と其心理分析』(加藤玄智 明治聖徳記念学会、1931年)
『静岡県榛原郡誌』上巻 復刻版(静岡県榛原郡役所編 臨川書店、1987年)
『蕉園漫筆』(小島蕉園 1833年)(京都大学附属図書館所蔵 国書データベースより引用、https://doi.org/10.20730/100268732、pp.48-49)

広告

小島蕉園翁頌徳碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

小島蕉園翁頌徳碑

場所

山梨県山梨市一町田中1153

備考

「小島蕉園翁頌徳碑」は、旧田中陣屋の鎮守であった水上稲荷社の境内にあり、碑の下に復興された生祠が鎮座しています。国道411号「一町田中」交差点から北におよそ100メートル、山梨県道202号山梨市停車場線沿いの一町田中果実出荷組合に隣接する小規模な石垣の上が水上稲荷社の境内となります。交通は中央自動車道「一宮インターチェンジ」から車で10分、JR中央本線「山梨市駅」から市民バス(山梨循環線)乗車15分、「一町田中」バス停で下車してすぐです。

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本のため入手困難ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]
このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)