伊曽島神社(福豊十六人衆と豊松新田・福井新田越訴)
木曽三川の河口に当たる豊松新田・福井新田(今の三重県桑名市)はたびたび洪水の被害に悩まされており、享保10年(1725)に儀左衛門らあわせて16人の「福豊十六人衆」が幕府老中に直訴した結果、享保13年(1728)に堤防・新田の再築が図られました。後に彼らは神に祀られ、明治時代に伊曽島神社の末社として合祀されました。
義民伝承の内容と背景
百姓らは幕府の笠松代官に数度にわたって築堤を出願するものの許可を得られず、惣代5人が江戸に上って勘定奉行に嘆願するものの受理されなかったことから、ついに享保10年(1725)、70歳を越える老齢の儀左衛門はじめ、平蔵・彦三郎・伝次郎・伝右衛門・長左衛門・三郎右衛門・与惣右衛門・五右衛門・源助・惣兵衛・次郎兵衛・源左衛門・善兵衛・弥平・長助のあわせて16人が連判して、幕府に直訴することを決めました。
同年9月、老中及び代官・辻甚太郎の伊勢神宮参拝からの帰路を待ち受け、桑名の町屋橋北詰で直訴を決行しますが、再三にわたって突き返され、川口港でようやく受理されたものの、16人は身柄を拘束されて江戸に送られ、揚り屋入りを命じられました。
幕府で直訴の内容を詮議した結果、16人は釈放され帰郷の途につきましたが、幕府は財政難で工事をする余裕がなかったことから、彼らみずからが資金調達をすることになりました。そこで各地の富豪を説いて回った結果、尾張国熱田(今の愛知県名古屋市)の加藤甚左衛門ほか7人の出資を得て、享保12年(1727)に起工、翌13年(1728)に竣工することができました。この工事によって生まれた新開地は50町7反5畝(約0.5平方キロメートル)、総費用は4,035両で、出資者と農民が7対3の割合で取得したといいます。
後年になって、村人たちはこれら16人の功績を顕彰するため、両新田合同の産土神である「福豊神明社」の境内に社殿を建てて神として祀り、直訴の日に当たる旧暦9月8日を祭日としました。明治44年(1911)には、木曽三川分流工事による青鷺川埋立地に創建された「伊曽島神社」に遷され、以来、全村民の霊を合祀して、毎年10月に祖霊祭が行われています。
昭和59年(1984)には、彼ら「福豊十六人衆」の業績を記した石碑が、その子孫の手によって「伊曽島神社」境内左手の末社「祖霊社」参道鳥居脇に建てられました。
参考文献
『長島町誌』上巻(伊藤重信 長島町教育委員会、1974年)
伊曽島神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
伊曽島神社
場所
三重県桑名市長島町福吉880
備考
「伊曽島神社」は、国道23号の「木曽川大橋」の下、木曽川沿いに鎮座しています。自動車であれば伊勢湾岸自動車道「湾岸長島インターチェンジ」から5分、国道23号「長島インターチェンジ」からも同様に5分です。公共交通機関を使う場合、JR関西本線・近鉄名古屋線・養老鉄道養老線「桑名駅」から三重交通バス(桑名長島温泉線)に乗車して15分、「長島スポーツランド」バス停で下車して徒歩10分です。境内正面向かって左手に「稲荷社」と「祖霊社」の小祠が並び、手前鳥居脇に「福豊十六人衆」の碑があります。境内の周囲には「木曽川明治改修着工の地」や「七里の渡し」(東海道七里渡青鷺川旧跡)の碑も建てられています。