石黒神社

石黒神社

先賢・循吏の史跡

鹿田かった代官の石黒小右衛門政宇まさずみは、宝暦5年(1755)に旭川の大洪水があった際、飢えに苦しむ美作国真島郡向津矢むかつや村(今の岡山県真庭市)の人々を救うため独断で年貢を半減し、幕府の許しが得られないと知ると、その責任を負って自害したと伝わります。向津矢村の人々は「石黒神社」の小祠を建てて石黒代官を祀り、現在は垂水神社の末社となっています。

伝承の内容と背景

京都町奉行東組与力であった石黒小右衛門(または三十郎)政宇は、同僚である神沢貞幹の著書『翁草』に「聡明廉潔」と評される能吏であり、上司である京都所司代の土岐頼稔ときよりとしが老中に出世すると、政宇もまた幕府勘定役に抜擢されています。

土岐頼稔の病没後、寛延2年(1749)に石黒政宇は美作国の鹿田代官に任じられますが、施政が公明正大であったため、『翁草』には「他領よりも、政宇の徳を慕ひ、ここに来て住する者も多」かったとあります。

あるとき領内が凶作に見舞われたため、石黒政宇は独断で飢えた百姓に夫食を施しましたが、ややあってから、伺いを立てずに夫食を施すことは上意に適わずとする書状が江戸より届きました。

ちょうど食事中だった政宇は、書状を読んで驚きもせずに食事を食べ終わると、さりげなく納戸に入り、責任を一身に負い自害したと伝わります。

もっとも、『翁草』の著者である神沢貞幹は、「此自殺の事疑らくは妄言ならん」と記し、事実かどうかは疑わしいと感想を述べています。

『真庭郡誌』はこの間の経緯をさらに詳細に伝えていますが、同書によれば、宝暦5年(1755)に旭川の大洪水で真島郡向津矢村の耕地や家屋が流出し、百姓が飢餓に瀕した際、幕府は日本原野(今の津山市・勝田郡奈義町)への集団移住を命じたということです。

これに対し、現地の惨状を目の当たりにした石黒代官は、結神社に百姓を集めると、「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や守らん」の古歌を揮毫しつつ、家業に精励して復興を果たすように説諭し、あわせて江戸に伺いを立てる暇がないとして、独断で年貢の半減を言い渡しました。

ところが、幕府はこの年貢半減の措置を認めずに石黒代官を罷免したため、宝暦6年(1756)、「たとへ身は失するも霊魂は向津矢に留る」と遺言し、江戸からの帰途の駕籠の中で亡くなったということです。

石黒政宇は真島郡鹿田村(今の真庭市)の太平寺に葬られましたが、さらに代官を慕う向津矢村の人々により結神社の境内に「石黒神社」として祀られました。明治42年(1909)、結神社が垂水神社に合祀されたため、「石黒神社」も上市瀬八幡神社末社の「宝龍神社」とともに垂水神社の境内に移転し、現在も本殿裏手に鎮座しています。

参考文献

『真庭郡誌』(真庭郡編 真庭郡、1923年)
『日本随筆大成』第3期第11巻(日本随筆大成編輯部編 日本随筆大成刊行会、1931年)
『落合町史』(尾崎蘭青 作陽新報真庭本社、1972年)

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石黒神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

石黒神社

場所

岡山県真庭市落合垂水552

備考

「石黒神社」は、真庭市落合垂水の垂水神社本殿裏手にある小祠に「宝龍神社」とともに祀られています。垂水神社はJR姫新線「美作落合駅」から西へ2キロメートルの位置にあり、駅から真庭市コミュニティバス「まにわくん」(北房・久世ルート)に乗車して5分、「落合小学校前」バス停で下車してすぐです。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)