井戸平左衛門の墓

井戸平左衛門の墓

先賢・循吏の史跡

江戸時代の享保年間、大田代官・笠岡代官となった井戸平左衛門は、「享保の大飢饉」で深刻な状況にあった村々の年貢を減免するとともに、陣屋の米蔵を独断で開いて飢えた人々に食糧を分け与えました。また、救荒用作物として優れた甘藷の栽培を領内に普及させ、「芋代官」として知られるようになりました。井戸平左衛門は代官在任2年で亡くなり、笠岡の威徳寺に墓が建てられましたが、その後も彼を慕う人々により、西国各地に500以上もの顕彰碑が建てられています。

伝承の内容と背景

江戸時代中期の享保16年(1731)、幕府勘定役の井戸平左衛門は、60歳の高齢ながら、石見銀山を擁する大森代官に抜擢されました。さらに翌年の享保17年(1732)には、前任の代官・竹田喜左衛門の死去にともなう笠岡代官所預りを兼務しています。

享保17年は夏場の気温低下と害虫(ウンカ)の大量発生による「享保の大飢饉」で知られる年ですが、特に西日本における飢饉の状況は深刻でした。その真偽は別として、『徳川実紀』は「すべて山陽西海四国等にて。餓死するもの九十六万九千九百人とぞ聞えし。」と、餓死者が膨大な数に上ったことを伝えています。

このような未曾有の飢饉に対し、井戸平左衛門は領内をくまなく巡視して、被害の程度に応じた年貢の減免を決定しました。中には石見国安濃あんの郡鳥居村(今の島根県大田市)のように、田畑の年貢を全額免除とした事例さえあります。『島根県史』には、その証拠となる史料として、同村庄屋の宮脇家に伝わる「当子年ねどし田方虫付損亡有之破免」「此取米なし」などの記載がある年貢割付状を掲げています。

また、村々の庄屋や富豪に呼びかけて米を買う資金を募ったり、年貢米を保管する陣屋の米蔵を独断で開いたりして、飢えた人々には積極的に食料を施しました。当時の幕府の記録である『虫附損毛留書』には、「是は夫食ふじき行届餓死人無之由平左衛門存生之内申越候」と、一人の餓死者も出さなかった旨の申告があったことが記されています。

さらに、井戸平左衛門は救荒用作物として領内にいち早く甘藷(サツマイモ)を導入したことから、後世、「芋代官」の通称をもって知られるようになりました。

享保17年4月のこと、石見国邇摩郡大森町(今の島根県太田市)の永泉寺を参詣した井戸平左衛門は、たまたま同寺を訪れていた泰永という旅の雲水から、薩摩国(今の鹿児島県)の甘藷栽培の話を聞き付けます。そこで泰永に代官所手代の伊達金三郎を添えて薩摩国に送り込み、当時国外への持出しが禁止されていた種芋100斤(60キログラム)を、苦心の末にどうにか持ち出すことに成功しました。

井戸平左衛門は領内の村々に種芋を配って栽培させましたが、最初の年はほとんどが失敗して腐らせてしまいました。唯一、邇摩郡福光村(今の大田市)の老農・松浦屋与兵衛だけが栽培と種芋の貯蔵に成功し、ここから近隣へと甘藷栽培が広まりました。

井戸平左衛門は、享保18年(1733)4月18日、大森代官所を離れて備中国小田郡笠岡町(今の岡山県笠岡市)の笠岡代官所に移りますが、それからわずか1か月後の5月26日に笠岡で病死しています。

もっとも、かつては井戸平左衛門の死は病気が理由ではなく、飢饉の際に無断で米蔵を開くなどした非違行為の責任を取って切腹したものと解釈されており、明治時代に小室信介が著した『東洋義人百家伝』にも「笠岡の陣屋にて腹十文字にかき切りていさぎよく相果てたり」と書かれています。

井戸平左衛門は笠岡の曹洞宗の寺院・威徳寺に葬られ、「泰雲院殿義岳良忠居士」と刻した墓標が建てられました。参道に並び建つ石灯籠は笠岡と大森の村人が寄進したものですが、その後も代官に恩義を感じた人々によって、中国地方各地に多くの墓碑や頌徳碑、祠などが建てられました。

大田市文化協会の調査では、このようないわゆる「いも代官頌徳碑」はこれまでに533基が発見されていますが、うち威徳寺裏手の井戸公園に建てられた「井戸明府碑」は、食糧不足で甘藷増産が叫ばれていた昭和19年(1944)のもので、高さが5メートル以上もあります。

参考文献

『井戸明府』(恒松隆慶 恒松隆慶、1911年)
『島根県史』九(島根県学務部島根県史編纂掛編 島根県、1930年)
『江津市誌』上巻(江津市史編纂委員会編 江津市、1982年)
『笠岡市誌』第二巻(笠岡市史編さん室編 笠岡市、1989年)
『東洋義人百家伝』初帙 下(小室信介 案外堂、1883年)
『徳川実紀』第五編(成島司直もとなお編 経済雑誌社、1904年)
『内閣文庫影印叢刊 虫附損毛留書』下(国立公文書館内閣文庫編 国立公文書館内閣文庫、1980年)
『石見銀山の社会と経済』(島根県教育庁文化財課世界遺産室編 島根県教育委員会、2017年)
『いも代官頌徳碑533基全覧』(大田市文化協会編 大田市文化協会、2023年)

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井戸平左衛門の墓の場所(地図)と交通アクセス

名称

井戸平左衛門の墓

場所

岡山県笠岡市笠岡5418

備考

「井戸平左衛門の墓」は、旧井笠鉄道本線跡通り(歩行者・自転車専用道路)に面した曹洞宗威徳寺の境内、山門入って右手のみかえり堂脇にあります。
駐車場は山門左手の公道の急坂を登り、「井戸明府碑」の建つ井戸公園を越えた先にありますが、途中の坂は舗装されてはいるものの、幅員が自動車1台分ほどと狭いので要注意です。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)