橋本祐三郎首塚
美濃国(今の岐阜県)岩村藩の代官であった橋本祐三郎は、凶作に苦しむ農民に同情して年貢の延納を認めたものの、公金取扱上の不正を疑われて死罪に処せられたと伝えられます。現地には今も「橋本祐三郎首塚」が建ち、恵那市史跡に指定されています。
伝承の内容と背景
岩村藩主・松平乗美の時代、筆頭家老に任じられた丹羽瀬清左衛門は、質素倹約と殖産興業を柱に藩政改革を推進しました。
その施策の一つである「二十七会講」は、領内各村から村高などに応じた掛金を強制的に拠出させる無尽講であり、農民にとっては大きな負担となっていました。
文政11年(1828)12月、恵那郡阿木村(今の中津川市)の農民たちが字田中の若王子神社に集まり、掛金拠出の1年繰延べを協議したところ、これが藩から「徒党」とみなされ、翌文政12年(1829)2月5日夜、庄屋・兼三郎らが捕縛されて岩村城下に連行されました。
その後も年貢未納を理由に多数の農民が代官所に召喚されて取調べを受け、手錠、押込めなどの処分が申し渡されています。
この「文政の阿木騒動」の過程において、阿木村を含む上郷の代官であった橋本祐三郎が、詳しい事情は不明ながら公金取扱上の不正を疑われて岩村商人3人とともに捕らえられ、家禄・苗字帯刀を剥奪の上で死罪となっています。
橋本祐三郎については、凶作に苦しむ農民に同情し、郷蔵に納めるべき年貢の延納を認める一方、帳簿を操作して年貢が既に納付されたように見せかけたことが発覚して死罪になったとも伝えられ、地元では「愛民代官」として語り継がれています。
橋本祐三郎の首級は富田村大円寺(今の恵那市)の庄屋・神谷宗右衛門に下げ渡され、大円寺の黒地山に葬られましたが、今でも山の奥まった場所に正面・左側面・右側面にそれぞれ「祐山逸道居士」「正意墓」「文政十二己丑歳五月三日」と刻む墓碑がひっそりと建っています。
文政13年(1830)、丹羽瀬清左衛門は『六諭衍義大意』といわゆる『慶安御触書』とを木版刷りにして領民に配布し、なお一層の綱紀粛正を図るものの、その厳しすぎる改革姿勢は天保8年(1837)の「天保騒動」を招き、領内52か村から「清左衛門様一刻も早く御押込被仰付」を要求されるに及び、藩主から蟄居を命ぜられて失脚しました。
参考文献
『恵那市史』通史編第2巻(恵那市史編纂委員会編 恵那市、1989年)
『岩村町史』(岩村町史刊行委員会編 岩村町、1961年)
『岩村町文化財図録』(岩村町文化財図録編集委員会編 岩村町・岩村町教育委員会、1994年)
橋本祐三郎首塚の場所(地図)と交通アクセス
名称
橋本祐三郎首塚
場所
岐阜県恵那市岩村町富田字天神山627
備考
岐阜県立恵那特別支援学校前から天皇神社・白山神社方面へと北東に延びる市道沿いの入口に「橋本祐三郎墓所まで0.4km」の標柱と解説板があります。ここから畦道を進んで突当りの竹藪に至り、さらに左折して竹藪内の山道を進みます。途中で「右参道」の石柱がある場所は直進せずに右折し、そのまま道なりに進めば、「橋本祐三郎首塚」の標柱がある丘に墓碑が建っています。