義人庄屋源吉頌徳碑(高足村源吉の義民伝承)
三河国渥美郡高足村(今の愛知県豊橋市)庄屋・源吉は吉田藩に年貢減免をたびたび嘆願し、安永3年(1774)に要求は認められるものの、若くして病死したといいます。現地には源吉の墓のほか、頌徳碑が建てられています。
義民伝承の内容と背景
三河国渥美郡高足村の源吉は明和6年(1769)に18歳の若さで庄屋となりますが、翌7年(1770)に高足村が不作に見舞われたため、他の庄屋とともに吉田藩に対して年貢減免を求める嘆願を行うことになりました。
その際、源吉は検見の役人が来るたびに不作の田のみ案内したり、他の庄屋が訴えを取り下げる中にあっても執拗に嘆願を繰り返すなどしたといいます。
結果として安永3年(1774)には吉田藩から田租138石の免除を勝ち取ることができましたが、それと引換えに上を欺き強訴をした罪を問われた源吉は投獄され、死罪になることが決まりました。
そこで村人らは「吉田三ヶ寺」の一つである悟真寺など地元の有力寺院を抱き込んだ減刑の嘆願活動を行い、源吉は辛くも死罪を免れ、幽閉されることになりました。
しかし、5年の長きにわたる不自由な生活の中で病を患った源吉は、翌年の安永4年(1775)2月2日に25歳の若さで亡くなりました。
以来、村人らは庄屋源吉の遺徳を偲び、菩提寺である円通寺で毎年7月1日に施餓鬼供養を営むようになりました。
また、郷土の義人を顕彰するため、昭和36年(1961)には高師校区の人々によって新たに円通院境内に「義人庄屋源吉頌徳碑」が建てられました。
参考文献
『豊橋市史』第2巻(近世編)(豊橋市史編集委員会編 豊橋市、1975年)
『豊橋の史跡と文化財』(豊橋市教育委員会 豊橋市教育委員会、1981年)
義人庄屋源吉頌徳碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義人庄屋源吉頌徳碑
場所
愛知県豊橋市上野町上原103番地
備考
東名高速道路「豊川インターチェンジ」から車で40分、高師小学校に隣接する円通寺の境内西側にある。