萩原神社(野木久右衛門と御厨一揆)

年貢減免に奔走した義人たちを神に祀る

2023年5月22日義民の史跡

天明3年(1783)、天候不順による大飢饉に見舞われた駿河国駿東郡萩原村(今の静岡県御殿場市)をはじめとする一帯の村々では、年貢減免を求めて小田原藩への強訴を企て、城下に赴く途中で役人の説得に応じて帰村しました。減免は僅かに認められたものの、萩原村久右衛門らが死罪となったことから、「四相権現」として萩原神社に合祀されています。

義民伝承の内容と背景

天明3年(1783)、長雨や早霜などの天候不順による大飢饉に見舞われた駿河国駿東郡萩原村をはじめとする一帯28か村では、蓑笠を身に着け鍬・鎌を手にした500人余りの農民たちが集まり、11月17日、年貢減免を求めて藩庁のある小田原城下に押し掛けようとしました。

このとき、箱根関所を越える直前の箱根宿小田原町(今の神奈川県足柄下郡箱根町)名主・佐五右衛門や、藩の地方組小奉行らの説得によって、一揆勢は実際には城下に立ち入ることなく引き返しており、鉄砲で武装して待ち構えていた箱根関所も佐五右衛門の働きは「出精」として褒め讃えています。

この年の12月には藩から正式に年貢の割付状が交付されましたが、「用捨引」としてわずか1割の減免を認める一方で、翌年の天明4年(1784)からは責任者の追及がはじまり、同年8月、萩原村の鋳掛屋・久右衛門に死罪、新橋村(今の御殿場市)の前名主・常右衛門に永牢、その他9人に所払が言い渡されました。

天明8年(1788)には早くも久右衛門が村の鎮守の「子之神社」に祀られ、寛政3年(1791)には牢死した常右衛門のため、彼が開いていた寺子屋の弟子たちにより筆子塚も建てられました。明治時代には萩原村で一揆に関係した久右衛門・常右衛門・浅右衛門・又右衛門の4人が「四相権現」として萩原神社に合祀されました。

参考文献

『御殿場市史』第8巻(御殿場市史編さん委員会編 御殿場市、1981年)
『江戸時代の小田原』(岩崎宗純ほか 小田原市立図書館、1980年)
『静岡県史』通史編4 近世2(静岡県、1997年)

萩原神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

萩原神社

場所

静岡県御殿場市萩原163番地

備考

東名高速道路「御殿場インターチェンジ」から車で5分、広い駐車場のある市民会館の南側に鎮座している。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)