北市騒動供養塔(北市村源右衛門と北市騒動)

米価高騰に立ち向かった頭取らを供養する石塔

2023年5月23日義民の史跡

宝暦7年(1757)、凶作による米価高騰を機に越中国城端町(今の富山県南砺市)の米屋が打ちこわされる「北市騒動」が起こり、頭取として北市村(今の南砺市)源右衛門らが処刑されました。宝暦8年(1758)には六字名号と刑死者・牢死者の名を刻む供養塔が建てられました。

義民伝承の内容と背景

連年にわたる凶作が続いた宝暦7年(1757)、加賀藩領の越中国砺波郡城端町周辺では、この年も6月から7月にかけての洪水で稲が実らず、米価が高騰して領民は困窮を極めていました。

『川上農乱記』が伝えるところでは、米価高騰を目論む米屋が雨乞いをしようとして、金気を忌み嫌う龍神が棲むという縄ヶ池に金屎(鉱滓)3升を投げ捨てたため、龍神の祟りで洪水が続いているのだとする風説が立ち、6月10日ごろに米屋の打ちこわしを促す立札が密かに城端町内に立てられました。

11月には周辺の村々に一揆を促す廻状が送られ、ついに同月23日、砺波郡北市村をはじめとする村々の百姓と城端町内の細民とがあいまって、およそ千人ほどの人々が町内の米屋5軒を打ちこわす騒ぎとなりました。

これを「北市騒動」「城端騒動」といいますが、その日の夜のうちに数十人が捕縛され、「竹杖ニ而打擲」を伴う取調べを受けた後、一揆の廻状を作成し強訴を企てた頭取として北市村源右衛門・三右衛門・又吉の3人が12月27日にそれぞれの自宅前で磔刑に処せられました。

また、6月の立札の首謀者である城端町法乗寺門前の野田屋弥兵衛・細野屋与兵衛の2人も同日刎首され、近くにある野田坂に首を晒されました。『川上農乱記』には25歳で刑死した与兵衛の母親が余りのむごい仕打ちに精神を病み、息子の獄門首に「串柿等持寄て喰や喰やとくわせたる」ありさまが描かれています。

この一件で米価引下げに関する領民の要求は受け入れられたことから、宝暦8年(1758)、「南無阿弥陀仏」の六字名号のほか、村内の刑死者3人の法名と牢死者12人の俗名を刻んだ供養塔が北市村内に建てられました。

昭和31年(1956)の二百回忌には、新たな「宝暦騒動三者追善供養碑」がこの供養塔の隣に添えられました。また、北市騒動を題材とする小説『田螺のうた』を著した地元南砺市出身の文学者・岩倉政治の文学碑も、平成8年(1996)に同じ敷地内に建立されています。

参考文献

『富山県史』通史編4(近世下)(富山県 富山県、1983年)
『一揆打毀しの運動構造』(山田忠雄 校倉書房、1984年)

北市騒動供養塔の場所(地図)と交通アクセス

名称

北市騒動供養塔

場所

富山県南砺市北市地内

備考

東海北陸自動車道「南砺スマートインターチェンジ」から車で15分。高瀬神社の1キロメートル南、県道27号金沢井波線沿いに新しい供養碑と並ぶ。

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)