江戸時代前期、吉野川の洪水による被害を防ぐため、徳島藩の貞光代官・原喜右衛門は石積みの「藤森堤」を築堤しました。しかしながら、その過程で周辺の村々に夫役を命じたことが藩主への直訴を招き、喜右衛門は責を負って切腹、従者2人もこれに殉じたといいます。明治時代以降、この築堤により洪水被害の軽減と耕地拡大が図られたことが再評価され、3人を祀る「三王神社」が建てられました。
伝承の内容と背景
そこで貞光代官の原喜右衛門(太郎左衛門とも)は、徳島藩主・蜂須賀光隆の許しを得て、この地に底幅8間(15メートル)、天幅3間(6メートル)、高さ2間半(4.5メートル)、長さ288間(524メートル)の堤防を築こうとしました。
困難を極めた築堤の工事は遅々として進まず、仕事を放り出して逃げ出す人夫も多かったことから、1日の労賃を1文銭のつかみ取りにして人集めを図ったという口碑も伝わっています。
やがて資金も尽きた代官は、貞光村・太田村・一宇山・東端山・西端山・半田村・半田口山・半田奥山の8か村に夫役を課し、強制的に築堤工事に従事させましたが、獣害による不作や他の夫役・出奉公との重なりで疲弊した百姓の中からも、やはり「走人」として故郷を去る者たちが現れました。
この状況を見かねた東端山政所(庄屋)の武田助左衛門は、「御代官所の非道なる御事」を「百姓共の身代りに相立ち」藩主に直訴するとして、夫役の軽減と代官所の廃止を要求しました。
武田助左衛門は獄死したものの、願意は藩主の取り上げるところとなり、「見積り違其他不調法」を理由に代官の切腹が命じられたため、明暦3年(1657)、原喜右衛門は吉野川を見下ろす場所にあった平らな石の上に端座して切腹し、その従者2人も追い腹を切って亡くなったと伝えられます。後に貞光代官所も取り壊され、役人は徳島城下に引き上げたため、百姓の負担も軽減されたということです。
原喜右衛門により多くの百姓が夫役に苦しんだことは事実ながら、この「藤森堤」により長く洪水被害は回避され、「貞光島」とよばれる広大な耕地が生まれたことから、明治26年(1893)に当時の区長らにより原喜右衛門と2人の従者を祀る「三王神社」の小祠が建てられ、昭和3年(1928)には堤沿いの竹藪の中にあった当初の祠を見下ろす高台に「三王神社」の神殿が新築されて遷座しました。
さらに、河川改修に伴う新たな「貞光堤防」の建設で役目を終えた「藤森堤」の由来を明らかにするため、昭和45年(1970)に「三王の碑」が建てられたほか、石積みが残る旧堤防も昭和51年(1976)に貞光町(今のつるぎ町)の史跡指定を受けて現在に至っています。
参考文献
『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町史編纂委員会編 徳島県美馬郡貞光町役場、1965年)pp.193-199, pp.1209-1210, pp.1468-1470
『貞光町風土記-木綿麻の里に歴史を探る-』(柳川武夫 教育出版センター、1982年)pp.8-11
三王神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
三王神社
場所
徳島県美馬郡つるぎ町貞光字西山75-3
関連情報
https://www.town.tokushima-tsurugi.lg.jp/docs/3509.html
つるぎ町>記念物-史跡>三王堤防 1件 0883-62-2331(つるぎ町教育委員会)
備考
「三王神社」は、国道438号・国道192号が合流する美馬橋南詰の交差点から300メートルほど南東の高台に鎮座しています。国道に並行する徳島県道126号半田貞光線上の「三王公園入口」「つるぎ霊園」とある看板を目印に、坂道を進んだ突き当たりが神社境内となります。拝殿の裏手、台座と小祠の間に挟まれている平たい石が、代官が切腹したときに座っていた石であると伝えられます。
公共交通機関でのアクセスは、JR徳島線「貞光駅」からつるぎ町コミュニティーバス(幹線)乗車2分、「美馬橋」バス停下車、徒歩10分です。マイカーでのアクセスは、徳島自動車道「美馬インターチェンジ」から5分です。
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