江戸幕末にしばしば大火に見舞われた若狭国遠敷郡小浜町(今の福井県小浜市)では、町奉行の武久権十郎が町方の助力を得て堀川を開削し、以後大火のおそれはなくなりました。堀川はその後改修されて道路敷となったものの、昭和51年(1976)には武久権十郎ら先人の偉業を顕彰する「堀川改修記念碑」が建てられています。
伝承の内容と背景
安政2年(1855)から小浜町奉行を務めていた武久権十郎は、町に防火のための水路を開削することを小浜藩に提案したものの受け入れられなかったため、大火の翌年に当たる安政6年(1859)、独力で事業を推し進めようと決意しました。
ただし、当時の記録によれば、藩も最初は町人に水路開削を請け負わせようとしたものの、資金調達が困難として断られたため、町奉行支配のもとで事業が進められた経緯があったことが『小浜市史』に紹介されています。
武久権十郎は町年寄・組屋六郎左衛門らの助力を得て、講員50人からなる堀川講を3講ほど組織し、1つの講につき銀15貫を拠出させるとともに、遊郭から冥加金を徴収することによって、あわせて銀65貫あまりの費用を調達しました。
こうして日雇頭の重田卯右衛門が工事を請け負い、1日当たり人夫50人あまりを投入して、冬ごろまでには工事が竣工しましたが、当初の資金では不足があったことから、北之橋(日吉橋)は武久権十郎、南橋(神田橋)は組屋六郎左衛門、そして中之橋(住吉橋)は町年寄の志水林蔵が、それぞれ「寄附」というかたちで私財を投じて架橋したということです。
工事は伏原村(今の小浜市)の杓川から取水して6尺(およそ1.8メートル)幅の素掘りの水路を小浜町内につなぎ、町内を通る広小路を拡幅して中央に1丈5尺(およそ4.5メートル)幅の水路を開削するというものでした。町内では石垣の護岸が築かれ、ところどころに深所を設けて防火のための水利として活用されたといいます。また、河口にも風浪を避けるために石積みの波止場が設けられ、堀川を流れる水は最終的に小浜湾へと注いでいました。
この堀川開削により小浜町が大火に襲われることはなくなったため、町奉行の武久権十郎や町年寄らは藩から麻絹の裃などの褒美を賜っています。しかし、当時の記録『永代万覚控』には「大水之砌石垣くずれ積直ス。町奉行武久権十郎様受不宜候。」とあり、大水で石垣が崩れるなどして町内の評判は芳しくなかったらしく、武久権十郎が文久2年(1862)に敦賀町奉行に転任したのも、工事を独断専行したゆえの左遷といわれます。
明治8年(1875)、小浜町を火災から守った武久権十郎は55歳で亡くなり、町内にある空印寺に葬られました。堀川もその後改修され、上部は埋め立てられて暗渠となっていますが、わずかに近代に入って再建された神田橋や住吉橋の欄干の一部が道路脇に残されています。
昭和51年(1976)には堀川都市下水路事業の竣工を記念するとともに、武久権十郎ら先人の偉業を顕彰するため、堀川の河口に当たる場所に、堀川開削以来の歴史を記した「堀川改修記念碑」が建立されました。なお、この石碑の基礎の部分には旧護岸石垣の一部が用いられ、当時の様子を今に伝えています。
参考文献
『小浜市史』通史編上巻(小浜市史編纂委員会編 小浜市、1992年)pp.1042-1043
『三百藩家臣人名事典』第3巻(家臣人名事典編纂委員会編 新人物往来社、1988年)pp.329-330
『小浜市史』諸家文書編4(小浜市史編纂委員会編 小浜市、1987年)pp.663-664
『若狭遠敷郡誌』 (福井県郷土誌叢刊)(遠敷郡教育会編 臨川書店、1985年)pp.657-658
『若狭大観小浜案内』(鹿野信九郎 小浜案内発行所、1911年)pp.55-56
堀川改修記念碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
堀川改修記念碑
場所
福井県小浜市小浜日吉
関連情報
https://obama-nishigumi.sakura.ne.jp/kaisetsu/tatemono/tatemono.html
小浜西組町並み協議会>小浜西組の建造物>堀川 0770-64-6034(小浜市経済産業部文化観光課)
備考
「堀川改修記念碑」は、小浜海岸の観光スポット「マーメイドテラス」のすぐ脇にあります。ここから南に延びる福井県道235号加斗袖崎住吉線が、かつて堀川が開渠で通っていた川筋に当たります。「堀川改修記念碑」へのアクセスは、JR小浜線「小浜駅」から北へ徒歩10分ほどです。マイカーの場合は、舞鶴若狭自動車道「小浜インターチェンジ」から5分ほどで、「マーメイドテラス」脇の「人魚の浜東駐車場」に無料で駐車できます。
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