鑑雄神社(岡村十兵衛の自刃事件)

鑑雄神社 先賢・循吏の史跡
飢饉に当たり米蔵を無断開放して自刃した役人を祀る
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貞享元年(1684)、不作・不漁で餓死者も出た土佐国安芸郡あきぐん羽根浦(今の高知県室戸市)では、土佐藩分一役ぶいちやくとして赴任していた岡村十兵衛が、藩の許可なく米蔵を開いて飢えた人々に米を分け与え、すべての責任を負って自刃する事件が起こりました。明治時代に入ると、墓の傍らに十兵衛を顕彰するための「鑑雄かがみお神社」が創建され、今も祭祀が続けられています。

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伝承の内容と背景

江戸時代の寛文から延宝年間(1660~80)にかけて、連年の風雨や洪水で疲弊した土佐国安芸郡の羽根浦では、藩から741石あまりの蔵米の貸付を受けたものの、その代金の返済もままならない状態でした。

こうした最中の天和元年(1681)、「分一銀ぶいちぎん」とよばれる税金を徴収する役目の分一役ぶいちやくとして、土佐郡布師田ぬのしだ村に居住する岡村十兵衛が羽根浦に赴任してきました。

十兵衛は村内を巡視して内情を把握すると、「御留山おとめやま」として伐採が禁じられていた黒見山に目をつけ、藩庁の許可を受けて伐り出した松材を上方に売却し、利益として得られた徳用銀42貫あまりを人々の救済に充てました。

ときに天和3年(1683)のことであり、かねてから事の成就を祈願していた浦の氏神である八幡宮にも、徳用銀の一部と浦人たち2百軒以上から募った奉加銀で鳥居を寄進し、皆で喜びを分かち合っています。

しかしながら、翌年の貞享元年(1684)にはまたしても凶作と不漁に見舞われ、浦人たちの中には餓死する者も現れました。十兵衛は藩庁に対し、米蔵を開いて納められている年貢米を放出するよう再三にわたって願い出ましたが、いくら待っても藩庁からの沙汰はありませんでした。

「浦人ども日々朝夕餓死に及候輩数多乍見及およびそうろうやからあまたみおよびながら、御蔵米積置安閑と番仕候つかまつりそうろうては、拙者せっしゃ当浦に相詰居候甲斐あいつめおりそうろうかい無之これなし」と思い詰めた十兵衛は、ついに藩庁の許可を得ぬままに米蔵を開き、飢えた人々に蔵米を施し与えました。

藩庁では無断で米蔵を開いた十兵衛に対し、追って沙汰を待つようにと謹慎を命じましたが、謹慎中の十兵衛は庄屋の檜垣左近右衛門らに事情を説明して後事を託した後、貞享元年(1684)7月19日の未明、役宅においてすべての責任を負って切腹して果てました。

羽根浦の人々は十兵衛の遺骸を八幡宮の近くに葬るとともに、跡目相続などで遺族に累が及ぶことのないよう、藩庁に宛てて庄屋やとしよりら連名での嘆願書を差し出しました。その中には、「浦人共ハ両親主人を失ひ候如く愁嘆仕候しゅうたんつかまつりそうろう」と、人々が我が親や主人のことのように悲嘆に暮れているようすや、「日々女童に至迄いたるまで参詣掃除つかまつり惜之これをおしみ御跡をしたひ申事、実に尽筆紙難く御座候ひっしにつくしがたくござそうろう」と、十兵衛を慕って皆が欠かさず墓参をしていることなどが切々と書かれています。

天保4年(1833)には墓所を修繕の上で岡村十兵衛の百五十回忌を執り行うとともに、積荷船ごとに初穂料を徴収して祥月の供養に充てることなどを取り決め、浦惣老の松本祐九郎を世話人としています。

土佐藩第13代藩主・山内豊煕とよてるは、弘化4年(1847)の東郡巡視の折に十兵衛の墓を参拝し、「有司勲鑑在此人このひとにあり」と、役人の模範として十兵衛を讃える内容の漢詩を贈るとともに、十兵衛の子孫を探し出して召し抱えようとしましたが、すでに跡目は断絶していたため実現しませんでした。

明治4年(1871)になると、羽根村惣組頭らが岡村十兵衛を神式で祀ることを藩に申請して社号を「鑑雄神社」とする神社創建の許可を得、翌年の明治5年(1872)に社殿の造営がはじまり、明治6年(1873)に正遷宮を執り行っています。

また、明治8年(1875)に高知県権令の岩崎長武がこの神社を参拝した際、戸長の西村重慶に費用を託したことから、藩校・致道館の教官を務めた奥宮正路おくのみやまさみちの撰文並びに書による顕彰碑も境内に建立されました。

このほか、岡村十兵衛の故郷である布師田村(今の高知市)にも、一族の墓地から離れた場所にある山裾に、同様に十兵衛の墓碑が建立されています。

参考文献

『東洋義人百家伝』第2帙下(小室信介 案外堂、1884年)pp.1-9
『鑑雄神社本末記』(竹崎金寿 竹崎金寿、1914年)
『羽根村史』(十兵衛会文化部編 羽根村、1957年)pp.97-122
『高知県史』近世編(高知県編 高知県、1968年)pp.226-228
『室戸市史』上巻(室戸市史編集委員会編 室戸市、1989年)pp.284-292

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鑑雄神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

鑑雄神社

場所

高知県室戸市羽根町乙1336


室戸市教育委員会生涯学習課 0887-22-5142

備考

「鑑雄神社」は、室戸市羽根町(字露ノ窪)乙地内、国道55号から200メートルほど海岸寄りの場所に鎮座しています。国道55号沿いの羽根郵便局の南東150メートルに「十兵衛食事処」があり、その向かいの狭い道路を海岸に向かって進むと、津波避難タワー、羽根八幡宮を経て、海岸近くの道路に突き当たります。この丁字路は同時に室戸市コミュニティバス「むろはぴ号」(羽根線)の「羽根八幡宮」バス停にもなっています。丁字路から道路を70メートル北西に進むと「鑑雄神社」となります。マイカーでのアクセスは、阿南安芸自動車道「芝崎インターチェンジ」から15分、又は高知東部自動車道「芸西西インターチェンジ」から50分で、神社境内に駐車可能です。公共交通機関でのアクセスは、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線「奈半利駅」から高知東部交通バス(安芸営業所~ジオパーク線)乗車15分、「羽根病院前」バス停下車、徒歩5分です。なお、コミュニティバス(羽根線)は金曜日のみ運行し、鉄道駅での発着もありません。

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岡村十兵衛の墓(手前)・顕彰碑(後)(鑑雄神社境内)
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岡村十兵衛の墓(布師田地内)
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