陸奥国閉伊郡下岩泉村切牛(今の岩手県下閉伊郡田野畑村)の百姓。牛方として塩荷駄を積み行商するのにあわせ、領内各村を巡って一揆への参加を説き、弘化4年(1847)の「弘化三閉伊一揆」の頭取として活躍した。この一揆では1万2千人で遠野南部家に強訴し、盛岡藩に税の免除などの要求を認めさせたが、翌年には捕縛されて盛岡で牢死、または斬殺されたという。
陸奥国閉伊郡下岩泉村切牛(今の岩手県下閉伊郡田野畑村)の百姓。牛方として塩荷駄を積み行商するのにあわせ、領内各村を巡って一揆への参加を説き、弘化4年(1847)の「弘化三閉伊一揆」の頭取として活躍した。この一揆では1万2千人で遠野南部家に強訴し、盛岡藩に税の免除などの要求を認めさせたが、翌年には捕縛されて盛岡で牢死、または斬殺されたという。