郡代塩谷の碑

2024年4月27日先賢・循吏の史跡

江戸時代後期、塩谷しおのや大四郎正義は19年にわたって豊後国日田郡(今の大分県日田市)の日田代官・西国郡代を務め、小ヶ瀬井路の開削や三隈川の通船工事など、民政面で多くの実績を上げました。塩谷大四郎が郡代解任の後に江戸で亡くなると、日田の人々は「郡代塩谷の碑」を建ててその事績を顕彰しました。

伝承の内容と背景

幕臣の塩谷大四郎正義は、文化14年(1817)に日田代官に任命され、文政4年(1821)には西国郡代に昇格しました。天保7年(1836)に江戸城二之丸留守居に転じるまで、代官・郡代の時代を通じて19年にわたって日田に在任した塩谷大四郎は、民政面で多くの実績を上げています。

例えば、文政3年(1820)には、洪水や旱魃、火事などの災害がなければむやみに米を放出することのできない官倉に代わり、平素から米を備蓄して困窮民に施しをするための施設として、日田陣屋の東南に「陰徳倉」を建てました。これは陣屋近くの豆田町の三松順平・隈町の山田半四郎といった町人を発起人としたもので、当時、両町内の富豪が寄付した米は600俵にも上ったということです。

また、文政6年(1823)には小ヶ瀬井路の開削に着手しました。これは日本最大の私塾といわれる「咸宜園かんぎえん」をつくった儒者・広瀬淡窓の弟である広瀬久兵衛が郡代に願い出て採択されたものですが、旱魃による飢饉にたびたび苦しんでいた日田郡上井出村(今の日田市)以下の13か村を灌漑することが目的でした。

特に会所山よそやまを貫通する隧道の掘削は難工事であり、広瀬淡窓の弟・旭荘が記した『九桂草堂随筆』には、トンネル内は酸欠状態で油に火を灯すこともできず、「穴ノ上ヨリ。大竹ノ節ヲサリ。上ニフイコヲシカケテ。気ヲ通シ」たとあり、竹筒とふいごを使って空気を送り込むような苦労と工夫があったことが偲ばれます。

広瀬淡窓の『懐旧楼筆記』には、淡窓が久兵衛を危ぶんで事業から手を引くよう忠告したことが載せられています。同書には「明府新溝ノ役ヲ興シ玉フコト。百世ノ利益ナルヘケレトモ。当時ニ於テハ。民力ヲ労シ。民財ヲ費スコト。誠ニ莫大ナリ。故ニ庶民怨嗟ノ声村〻ニ満テ。呪詛ノ語家々ニ起レリ。」とあり、郡代が進める井路工事の効用は認めつつも、多くの人夫と資金を費やしたことで庶民から恨みの声が上がっていた事情が伝わります。さらに「其内ニ凶年饑饉等ノ変アラハ。一揆競起ツテ。新溝新田ヲ以テ口実トセン。」とも記されており、井路開削や新田開発が百姓一揆の口実にされかねない切迫感があったこともわかります。

このような困難な経緯がありながらも、全長2,754メートルに及ぶ小ヶ瀬井路の工事は文政8年(1825)にようやく完成し、現在でも日田市内の防火用水などとして活用され、「水郷すいきょう日田」といわれる景観をつくり出しています。

同じ文化8年には三隈川の通船工事も始まりました。これも広瀬久兵衛を中心に進められた工事であり、川筋を開削して水流を盛んにし、豆田町に中城河岸、隈町に竹田河岸を設けて川船の発着を可能にするものです。この工事の結果、山がちで道路事情のよくない玖珠郡からの年貢米を、船で円滑に運搬することが可能になりました。 

そのほか塩谷大四郎の政策としては、新田開発や豊前浜の干拓、日田・玖珠間の道路開削、善行者の表彰、盲人養育田の創設などが挙げられますが、基本的に事業に際して民間に資金や人夫を供出させるなど、強引な手法が目立ったのも事実といえます。私塾であるはずの咸宜園に対しても、塾の規約を勝手に「己カ意ヲ以テ改革」するなど、運営や人事に権威的に干渉して塾生の離反を招く、いわゆる「官府の難」を引き起こしています。

天保6年(1835)、こうした手法により多くの出銀を余儀なくされた富豪らが江戸で出訴したため、塩谷大四郎は幕府の命で江戸に召喚されることになりました。その際の逸話として、江戸の役人が行李の中身を確認したところ、古い瓦や珍しい石ばかりがごろごろと出てきたのみで、財物がまったく見当たらないのに驚愕したといいます。

これにより塩谷大四郎に不正蓄財などの私曲がないことが明白になり、大四郎自身も日田への復任を希望したといいますが、子の塩谷正路が江戸在府を強く幕府に願い出たため、翌天保7年(1836)に西国郡代の任を解かれて江戸城二之丸留守居役を命じられ、同年中に江戸の自宅において生涯を終えました。

塩谷大四郎没後の嘉永元年(1848)、日田の人々はその事績を顕彰するため、慈眼山に「郡代塩谷の碑」を建てました。碑の表面には「故府尹塩谷君之碑」とあり、側面の文章は広瀬淡窓が撰文したものです。この碑の下には塩谷大四郎の歯2本が納められており、現在でも井路を管理する地元の土地改良区の役員などが毎年慰霊祭を行っています。

参考文献

『塩公事歴』(熊野御堂末次郎編 石田貞彦、1917年)
『日田郡自治民育資料』(大分県日田郡役所編 大分県日田郡役所、1915年)
『淡窓全集』上巻(広瀬淡窓著・日田郡教育会編 日田郡教育会、1925年)
『贈従五位広瀬久兵衛伝』(広瀬正雄 広瀬正雄、1929年)
『九桂草堂随筆』(広瀬旭荘 1857年)(国書データベースより引用、https://doi.org/10.20730/200035550
『江戸幕府の代官』(村上直 国書刊行会、1970年)

郡代塩谷の碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

郡代塩谷の碑

場所

大分県日田市秋山町地内

備考

「郡代塩谷の碑」は、花月川沿いにそびえる慈眼山の山腹にあります。市街地から永興寺の参道の階段を登り、文化財収納庫のさらに奥の山道を進むと碑が見えてきます。公共交通機関でアクセスする場合には、JR久大本線「日田駅」の前にある「日田バスターミナル」からひたはしり号(日田市内循環バス)に乗り、10分ほどで「慈眼山前」バス停に到着します。マイカーやレンタカーの場合は、永興寺下の花月川の河川敷に市営の無料駐車場があります。

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咸宜園

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)