沢君遺愛之碑

先賢・循吏の史跡

江戸時代、尾張国中島郡(今の愛知県稲沢市)は湿気の多い土地柄のため百姓は難儀をしていましたが、尾張藩の清須代官となった沢園兵衛は、須ヶ谷川の開削を進めるなどしてこの窮状を救いました。地元では沢園兵衛を祠に祀るとともに、「沢君遺愛之碑」を建ててその遺徳を偲びました。

伝承の内容と背景

江戸時代、尾張国中島郡(今の愛知県稲沢市)の儀長村をはじめとする17か村では、狭隘な三宅川の氾濫により農地や家屋が大雨のたびに水没し、地元の百姓らが難儀をしていました。

天明5年(1785)に尾張藩の清須代官となった沢園兵衛は、現地を巡視した上で、三宅川を日光川につなぎ河道を拡幅する工事を天明7年(1787)に完成させ、これらの地域から水害を除きました。

同じく清須代官の支配所であった庄内川流域では、水害対策として新川の開削が行われていますが、天明8年(1788)に地元の庄屋らが連名で沢園兵衛に宛てた手紙には、例年であれば破堤により「数万の人々溺死可仕つかまつるべく候処」を、工事によってさしたる被害もなく「御陰を以平生体に不相替あいかわらず農業を相勤」めることができたと謝意を述べており、当時の治水に対する関心の高さが伺われます。

次いで天明7年(1787)、低湿地のために稲が実らず、年貢の納入もままならない須ヶ谷すかたに7か村のため、須ヶ谷川を開削して排水路を整備する工事が始まりました。沢園兵衛は私財をなげうって工事を進め、11年がかりの難工事の末、寛政10年(1798)にようやく完成にこぎ着けました。

こうした沢園兵衛による治水関連の業績に対し、寛政5年(1793)には中野村の塩江神社の境内に「沢園社さわそのしゃ」と呼ばれる生祠が建てられ、現在も塩江神社の末社として本殿裏手にあります。さらに工事完成後、儀長村の大福寺にも沢園兵衛を祀る「番神祠ばんじんほこら」が建てられ、かつては命日に「提灯祭り」が行われていたということです。

沢園兵衛はその後、寛政10年(1798)に鳴海代官に転出し、文化8年(1811)8月17日(旧暦)に亡くなりました。そこで二十回忌に当たる文政11年(1828)には、多くの百姓が資金を出し合い、須ヶ谷村の尼寺・林香庵に沢園兵衛の徳を讃える「沢君遺愛之碑」が建てられ、現在は位牌のある経蔵寺の前に移設されています。

正面に隷書で「沢君遺愛碑」とある石碑の両側面や裏面には、沢園兵衛の業績を伝える漢文が楷書でびっしりと刻まれています。これは藩校・明倫堂教授を務めた儒者の秦鼎はたかなえが撰文したもので、「没数十年、事猶在目、愛之在心、豈有終極」として、亡くなってもなお業績が目に浮かび、想いは尽きないという人々の心情がわかります。

参考文献

『新修稲沢市史』本文編 上(稲沢市新修稲沢市史編纂会編 新修稲沢市史編纂会事務局、1990年)
『新川町誌』(町制五十周年記念町誌編纂委員会編 新川町制五十周年記念町誌編纂委員会、1955年)
『清洲代官澤園兵衛重格二百年祭』(リンコムアソシエーツ有限会社編 澤國生・澤政樹、2009年)

沢君遺愛之碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

沢君遺愛之碑

場所

愛知県稲沢市平和町須ケ谷郷592-3

備考

「沢君遺愛之碑」は、愛知県道130号馬飼井堀線の南90メートル、経蔵寺・八幡社の前にあり、「土地改良碑」などのいくつかの碑と同じ区画にまとめられています。
県道沿いに「真宗大谷派 豊谷山 経蔵寺」の看板が掲げられていますので、ここから自動車1台分ほどの幅員の狭い路地を経蔵寺に向かって進みます。駐車場はありませんが、碑の前面道路に広場状のスペースがあります。

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沢園社

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)