酒井七左衛門の墓

先賢・循吏の史跡

境川の水害に悩む美濃国(今の岐阜県)の松枝輪中の人々は、尾張藩の代官を通じて築堤を願い出るものの認められず、畑に盛土をして堤防代わりとする「畑繋堤」を自前で築きました。無届けの「畑繋堤」は何度か取払いを命じられていますが、酒井七左衛門が尾張藩の北方代官になると認容されたため、感謝した人々は代官の没後に墓を建てて弔いました。

伝承の内容と背景

境川に面した美濃国羽栗郡柳津村・北船原村・北宿村をはじめとする松枝輪中(今の岐阜市、羽島郡笠松町、羽島市)には、周辺より標高が高かったこともあり、無堤地帯が存在していました。

ところが、幕府が御手伝普請として薩摩藩に施工させた大規模な木曽三川の治水工事、いわゆる「宝暦治水」が成功すると、かえって川の水が逆流して田畑が水損の被害をこうむるようになります。

松枝輪中の村々は尾張藩の円城寺代官に築堤を願い出たものの、対岸の村々に水害が生じるおそれがあるとして反対が出たため、容易に実現することはありませんでした。

そこで村人たちは境川沿いの水田を埋め立てて畑にし、元からの畑にはさらに盛土をして、これらをつなげて事実上の堤防とする「畑繋堤はたつなぎづつみ」を自前で築きました。

天明3年(1783)に許可のないまま築堤を強行した際には、笠松村(今の笠松町)などから水位上昇で「差障」があると訴えられ、堤の「御取払」が命じられた上、強訴の嫌疑で入牢した柳津村の奥村元右衛門・渡辺藤左衛門・伊藤丹蔵と北宿村の野田勘右衛門のあわせて4人が牢死する事件も起こっています。4人の村役人が亡くなったのは天明4年(1784)または天明10年(1790、既に改元しているので本来は寛政2年)のことで、獄中でひそかに毒殺されたともいわれます。

その後、円城寺代官は廃止され、北方代官がこの地域を所管することになりましたが、文化2年(1805)に川並奉行兼北方代官となった酒井七左衛門は、松枝輪中の人々が「畑土流出之分、元形ニ取繕候」という理屈で盛土をして造成した「畑繋堤」を容認し、文化4年(1807)には延長およそ1,650メートルが概成して、無堤地帯が堤防で仕切られるようになりました。

もっとも、築堤には本来、幕府の美濃郡代の許可が必要であることから、文化10年(1813)には酒井七左衛門も江戸の評定所の喚出しを受けています。『松枝輪中守護神畑繋太神宮由緒』によれば、このとき酒井は「何ぞ一方は堤防を築き、一方は氾濫勝手次第なるをゆるさんや」として、すでに対岸は正規の堤防で守られているにもかかわらず、無堤地帯に新規の築堤を認めないのは不公平だと主張したとあります。

文化11年(1814)には松枝輪中10か村と、築堤に反対していた20か村との間で内済(和解)が成立し、「畑繋之義ハ、本堤ニ築立候極」として、正式な堤防の整備が認められました。その一方で、築堤で利益を受けた村々が資金を捻出して水害に遭った村々に助成をしたり、境川の流路を変更して水害を防止したりすることなどが取り決められ、この問題に一応の解決が図られました。

文政2年(1819)、酒井七左衛門は73歳で病没しましたが、これを聞いた松枝輪中の村々では遺骨をもらい受け、酒井家と宗旨が同じ南船原村(今の笠松町)にある浄土宗の慈眼寺に墓を建てました。「泰正院照誉文山居士」の戒名が彫られた代官の墓の両脇には、「畑繋堤」に関連して獄死した4人の墓も建てられています。さらに大正9年(1920)の百年祭の機会には、募金によって新たな墓碑への改築も行われました。

そのほか、明治31年(1898)に「畑繋堤」の上に「畑繋太神宮」が創建され、酒井代官と獄死者4人が祀られました。今日では「畑繋堤」のほとんどが河川改修などで姿を消していますが、わずかにこの神社の境内に小山状の跡が残り、岐阜市史跡の指定を受けています。

参考文献

『百姓一揆史談』(黒正巌 日本評論社、1929年)
『笠松町史』上巻(笠松町史編纂委員会編 笠松町、1956年)
『柳津町史』柳津編(柳津町、1972年)
『日本の歴史地理10 輪中』(伊藤安男・青木伸好 学生社、1979年)

酒井七左衛門の墓の場所(地図)と交通アクセス

名称

酒井七左衛門の墓

場所

岐阜県羽島郡笠松町門間2891

備考

「酒井七左衛門の墓」は、岐阜県羽島郡笠松町の慈眼寺本堂の手前にあり、境内西側の壇上中央に代官の墓碑、左右に村役人の墓碑2基が建っています。
慈眼寺は「門間南」交差点から西250メートルほど奥に入ったあたりで、普段は無住の寺院です。境内の空き地に自動車の駐車が可能です。

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)