頼杏坪充糧碑

頼杏坪充糧碑

先賢・循吏の史跡

広島藩儒として知られる頼杏坪は、備後国(今の広島県)三次郡の代官などを歴任し、荒廃した農村の立直しにも取り組んでいます。神社で敬老会を催し民心の掌握に努めるとともに、飢饉対策として領民に実のなる柿の木を植えさせました。3千本の植樹が成就した記念に建てられた碑は、「充糧碑」として今も地元に残ります。

伝承の内容と背景

広島藩士の頼杏坪(らいきょうへい)は、『日本外史』を著し幕末の尊王攘夷運動に多大な影響を与えた頼山陽の叔父に当たり、自身も藩儒として藩主の世子である浅野斉賢の侍講を務めました。

このように一般には儒者として知られる頼杏坪ですが、文化8年(1811)、56歳のときに御納戸奉行上席格をもって郡役所詰に任用され、以後は地方行政官としてもその能力を遺憾なく発揮することになります。

頼杏坪が記した『老の絮言(くりごと)』には「三次・恵蘇両郡は(中略)やゝもすれは徒党強訴、甚しきは一揆を起せしことも多かりけれは、官にもやむことを得られす足軽を出ししつめられしこともあり」とあり、当時、領内でも備後国三次郡(今の三次市)・恵蘇郡(今の庄原市)は百姓一揆が頻発する統治困難な地域とみられていました。

文化9年(1812)3月、三次郡に出張した頼杏坪は、密告をもとに鉄山における不正の摘発に乗り出しました。この地方の百姓は、農閑期に川浚えをして砂鉄を集め、鉄山の役人に納入して代銀を受領していましたが、不当に安く買い上げられていたため、不正摘発の恩恵は大きかったといえます。

また、鉄山を巡察した帰途、恵蘇郡(今の庄原市)山王原を通りかかった頼杏坪は、「此原はこれまて百姓とも徒党一揆を起す時に集会をする場所」であり、「天明一揆の頭せしものゝ頸を刎られたる塚もありける不吉の原」であることに思い至りました。

この地方では天明6年(1786)に5千人規模の「恵蘇郡一揆」が起こり、山王原で恵蘇郡福田組百姓・市三郎が打首、小和田組百姓・源右衛門が獄門となっています。

頼杏坪は村役人に言い含めて、山内組15か村のうち70歳以上になる老人127人を山王社(今の日吉神社)に集め、80歳の甚五郎を上座に据えて宴を催しました。これは「日本初の敬老会」ともいわれており、老人たちは酔って唄や舞を披露するなど上機嫌で、日暮れになってから子や孫に助けられつつ帰っていったといい、民心掌握にも意を用いたことが伺えます。

文化10年(1813)、頼杏坪は三次郡・恵蘇郡代官となり、翌文化11年(1814)にも同じ山王社で告文を捧げて「祈雨」をすると、にわかに空が曇って雨が降ってきたので皆で喜びあったといい、現在も日吉神社には当時の模様を絵師に描かせた「敬老図」や「雨乞祈祷図」が残ります。

文化13年(1816)には奴可郡・三上郡(ともに今の庄原市)代官を兼任し、ますます民政に力を入れていますが、たとえば三上郡本村などでは「地こぶり」と呼ばれる施策を実施しています。これは過去に決められた石盛と実際の生産力との間に齟齬が生じ、年貢負担が不公平となっている状態を改めるもので、貧農層から特に支持を集めました。

また、領民に実のなる柿の木の植えさせたり、平素から穀物を貯蔵しておく「社倉」を設けるなどして、凶作時の飢饉対策にも取り組みました。

文政11年(1828)、頼杏坪は不本意ながら4郡の代官を免ぜられ、代わりに郡廻本役兼三次町奉行となったため、「運甓居(うんぺききょ)」と名付けた三次町(今の三次市)の役宅に家族そろって移住しました。

「運甓居」の名は『十八史略』にある「陶侃運甓」の逸話から採ったもので、東晋の陶侃(とうかん)が広州刺史に左遷された際、朝になると瓦100枚を家の外に運び、日暮れにはその100枚を家の中に取り込んでいたので、いぶかしんで人がその理由を尋ねると、陶侃はいずれ中原で力を尽くすことになる時に備えて平素から苦労に慣れておくのだと語ったということです。

文政13年(1830)、頼杏坪は十年来にわたって取り組んできた柿の植樹が3,046本に達したことを記念して、山王社の境内に「充糧碑」を建てており、わずかに残った当時の柿の木は、今に「杏坪柿」と呼ばれて地元で大切にされています。

同年、家督を佐一郎(頼采真)に譲った頼杏坪は、官職を辞して広島城下に帰り、天保5年(1834)8月に亡くなると、頼家菩提寺の安養院(今の多聞院)に葬られ、儒者の篠崎弼(小竹)が墓碑銘を記しました。

参考文献

『広島県史』総説(広島県編 広島県、1984年)
『広島県史』近世資料編6(広島県編 広島県、1976年)
『頼杏坪先生伝』(重田定一 積善館、1908年)

頼杏坪充糧碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

頼杏坪充糧碑

場所

広島県庄原市山内町1048番地

備考

「充糧碑」は、中国自動車道・尾道自動車道・松江自動車道「三次東ジャンクション(三次東インターチェンジ)」から国道183号を東に向かい、車で10分ほどの場所にあります。国道沿いの入口に「国重要文化財 赤糸縅鎧 兜大袖付 (日吉神社)500m」「市重要文化財 敬老図・雨乞祈祷図 500m」の標識が掲出されているので、この交差点を南に進むと鳥居の脇に碑が建っています。公共交通機関利用の場合は、「庄原駅」又は「三次駅」から備北交通バス(三城線)に乗車し約20分、「山内学校前」バス停で下車して徒歩約10分です。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)