大原幽学遺跡

大原幽学旧宅

先賢・循吏の史跡

農村の荒廃が進んだ江戸時代後期、下総国香取郡長部ながべ村(今の千葉県旭市)の招聘を受けた農政学者・大原幽学は、先祖株組合の創設や耕地整理などの画期的な取組みを通じて村の立直しに成功しました。しかし、後に幕府の嫌疑を招いて押込百日の処罰を受け、不在の間に荒廃した長部村の惨状にも絶望した幽学は、安政5年(1858)に村の墓地で切腹して果てました。今日に残る大原幽学の旧宅・改心楼跡・墓地・耕地地割などは「大原幽学遺跡」として国史跡に一括指定されています。

伝承の内容と背景

江戸時代後期には農村にも貨幣経済が浸透したといわれていますが、下総国香取郡長部村も例外ではなく、近隣の海上郡飯岡村(今の旭市)などの賭場に出入りし、大金を失って田畑を売り払ったり、無宿者とともに農民を脅したりする者が現れ、荒廃が進んでいました。

講談の『天保水滸伝』には笹川繁蔵や飯岡助五郎ら侠客同士の争いが描かれていますが、その舞台はまさに長部村を含めた東総地域一帯にあったといえます。

こうした中で、長部村の名主・遠藤伊兵衛は、たまたま隣村で諸国を流浪していた農政学者・大原幽学の講演を聞き、幽学を村に招聘して荒廃した農村の立直しを依頼します。

大原幽学は尾張藩(今の愛知県)家臣・大道寺直方の次男で、18歳のときに藩の剣術師範を斬り殺して勘当されたといわれていますが、これを誤りとする説もあり、幽学自身も生前ほとんど語らなかったこともあって、出自については明らかではありません。

幽学の遺書冒頭には「時に僕十八歳にして漂泊の身となり」とあり、ともかくも18歳で尾張を出奔後は、諸国を流浪して武者修行をするかたわら、儒・仏・神道や易学を学び、主に占いなどで生計を立てていました。

近江国伊吹山の松尾寺(今の滋賀県米原市)で提宗和尚に出会って以降は、米一粒を得ることの大切さに目覚めて社会活動に邁進することを決意し、「人の為は則我が為め也」(『微味幽玄考』)として、親孝行や隣人間の相互扶助を通じて、人間が本来持っている良心に従い「分相応」に生きることを目指す「性学」を唱え、次第に「道友」と呼ばれる門人も増えていきました。

天保6年(1835)、遠藤伊兵衛の招きに応じて初めて長部村を訪れた大原幽学は、「先祖株組合」の結成や耕地整理、「換え子」の奨励などの改革を次々と行い、領主で旗本の清水家からも模範村として表彰される成果を収めます。

「先祖株組合」は「世界初の農業協同組合」とも評されているもので、組合員に農地の一部を供出させて組合の財産とし、その収益をもって子孫への積立てや潰れ百姓の救済などに充てる相互扶助のしくみであり、長部村のほかにも埴生郡荒海村(今の成田市)・幡谷村(同)・香取郡諸徳寺村(今の旭市)で領主の許可を受けて成立しています。

また、湯呑などの日用品を共同購入で安く仕入れたり、農地の交換分合や屋敷の移転によって農地を屋敷近くに集約して経営効率化を図るなどの取組みを行っており、整然と区画された農地の遺構は今でも国指定史跡「大原幽学遺跡」のなかに見ることができます。

「換え子」(預かり子)制度は子供を生みの親から離して数年程度、他の門人の家庭に預けて育ててもらうもので、貧しい家の子を裕福な家へ、裕福な家の子を貧しい家に預けたといわれ、地域全体で自他の区別なしに子育てをすることを奨励するものでした。

もっとも、遠藤伊兵衛の子として名主を継いだ遠藤良左衛門(遠藤亮規)の妻・遠藤ゑつのように、村の中でも最初は「自分のうんだ子と人のうんだ子とは同じにはなられまいと思へる」と換え子制度に反発しており、後になって実践に転じた例もあります。

天保13年(1842)には遠藤伊兵衛から提供された教導所を住居に改造して本格的に長部村への定住をはじめ、性学の活動も盛んになりますが、そのことによって必然的に門人の数も増加し、専用に講義をする場所が必要になったことから、門人の寄附により多額の費用をかけて教導所である「改心楼」が新築されました。

嘉永4年(1852)、幕府の関東取締出役の意向を受けた常陸国新治郡牛渡村(今の茨城県かすみがうら市)の忠左衛門はじめ大原幽学に反感を持つ住民ら5人が「改心楼」に乱入し、門人に怪我をさせられたと脅して金品を要求する、いわゆる「牛渡村一件」が起こると、この状況は一変してしまいます。

「改心楼」は中世に長部城があった要害の地に建てられており、そこに多数の農民が出入りしている以上は、一揆の密談をしているとも誤解されかねない面があり、この事件を契機として、大原幽学は幕府勘定奉行の取調べを受けるようになります。

江戸での訴訟の結果として、安政4年(1857)、幽学には押込百日をはじめ「改心楼」の取壊しや「先祖株組合」の解散が申し渡され、刑期を終えて長部村に帰ってみれば、すっかり村は元のように荒廃したありさまでした。

安政5年(1858)3月8日の未明、落胆した大原幽学は「今ここに至て処々に不孝不正に帰る者追々出来を見聞に不忍致自殺事に候」と門人に宛てた遺書をしたためた上で、「難舎者義也」(捨て難きは義なり)と彫られた短刀をもって長部村の遠藤家の墓前で切腹し、62歳の生涯を閉じました。

大原幽学自刃の地には墓が建てられ、現在も命日には墓前祭が行われているほか、出生の地の尾張国にも明治時代に墓が建てられ、現在は名古屋市千種区の平和公園に移転されています。

大原幽学の住居や墓地、改心楼跡、耕地の地割遺構などは、まとめて「大原幽学遺跡 旧宅墓および宅地耕地地割」の名称で国の史跡に指定され、「大原幽学遺跡史跡公園」として整備されるとともに、その隣接地には「大原幽学記念館」が開館しています。

参考文献

『大原幽学』(千葉県内務部編 多田屋書店、1911年)
『幽学全書』(大原幽学遺著・田尻稲次郎編 大正書院、1917年)
『大原幽学』(中井信彦 吉川弘文館、1963年)
『干潟町史』(干潟町史編纂委員会編 干潟町、1975年)
『大原幽学とその周辺』(木村礎 八木書店、1981年)

大原幽学遺跡の場所(地図)と交通アクセス

名称

大原幽学遺跡

場所

千葉県旭市長部345-2

備考

「大原幽学遺跡」は、大原幽学の旧宅・墓地・耕地地割・改心楼跡などを一括して史跡保存したものですが、隣接地に「大原幽学記念館」が開館しており、さまざまな史料や遺品を見ることができます。記念館入口に「大原幽学記念館・遺跡史跡公園駐車場」の看板がありますので、ここに駐車して徒歩で遺跡に向かいますが、その距離は200メートルほどです。史跡公園北側にも駐車場があります。
なお、墓地のみは記念館から直線距離で東に600メートルほど離れた山中にあります。入口に「史跡大原幽学墓地」の看板があり、自動車でアクセス可能ではあるものの、途中で自動車1台分程度の幅員の狭い道路を通行するため注意を要します。

関連する他の史跡の写真

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耕地地割
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旧林家住宅
大原幽学記念館

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)