小林大明神(小林孫四郎政用と柳野呂堤防)

先賢・循吏の史跡

安永8年(1779)に生野代官となった小林孫四郎政用は、領民から「慈愛ノ御代官」と慕われ、円山川と神子畑川の合流部に「柳野呂堤防」を築いて農地を水害から守った事績が伝わっています。人々は堤防上に「小林大明神」の小祠を設けて代官を祀り、後に馬神神社に合祀されて現在に至ります。

伝承の内容と背景

江戸時代、生野銀山を抱える但馬国生野町(今の兵庫県朝来市)には幕府の陣屋(生野代官所)が置かれていました。小林孫四郎政房が代官を務めていた元文3年(1738)には、生野銀山の下財(鉱夫)の騒動に引き続いて百姓3千人が参加する「元文一揆」が起こり、鎮圧のため姫路藩が出兵したほか、朝来郡磯部庄野間村(今の朝来市)庄屋小兵衛ら5人が死罪の上獄門、東河庄野村(今の朝来市)庄屋善兵衛が死罪切捨となりました。

明治時代に義民の事績を記した小室信介の『東洋義人百家伝』は、小林孫四郎政房のことを「心ねぢけて欲深かき男なりしかば、任に就きたるより以来このかた、威をふるひ権をもてあそびて、種々の苛政を行ひたりし」と酷評していますが、実際のところは一揆の処理をめぐる心労がもとで病気を重ねるありさまで、元文5年(1740)7月に在任中の生野において亡くなっています。

政房の嫡男である小林与茂助は生野の陣屋で育ち、16歳のとき江戸に戻されましたが、後に小林孫四郎政用と名を改め、父の死から39年を経た安永8年(1779)、生野代官の職を拝命してこの地に舞い戻ってきました。

江戸時代の文人・上道秀実が記した『和田上道かんだち日記』によれば、政用は父の政房とは異なり、「御料内之百姓下在町人迄大悦仕也おおいによろこびつかまつるなり」とその就任を歓迎され、「上ヲ尊ミ下ヲあはれミ」の精神で百姓の負担軽減や公平な訴訟運営に尽力したことから、「御上ヘハ忠臣、手下ニハ慈愛ノ御代官」と慕われました。

特に、円山川と神子畑川の合流部にある朝来郡立野村(今の朝来市)に「柳野呂堤防」を築き、農地をたび重なる河川の氾濫から守った事績が知られています。感謝した村民たちは堤防上に「小林大明神」の小祠を設けて代官を神に祀るとともに、村内の善晃院に祠堂田を寄進して永代供養を依頼しました。この「小林大明神」は寛政10年(1798)に同じ村内の馬神神社に合祀され現在に至っています。

なお、小林孫四郎政用は安永9年(1780)5月に病没したものの、1年間は喪を秘し、天明元年(1781)5月になってその事実が公表されたともいわれます。代官不在の間、手代の根本小右衛門が名代となって築堤工事を続けましたが、同年7月にはその小右衛門自身も亡くなりました。

小林孫四郎政用は父と同じ生野の玉翁院に葬られましたが、この寺院はすでに廃寺となっており、政用の戒名や俗名・命日を追刻した父子連名の墓碑だけが現地にひっそりと残ります。代官没後200年の昭和55年(1980)には、ゆかりのある善晃院の境内に立野区民一同の名で「小林代官頌徳碑」も建てられました。

参考文献

『東洋義人百家伝』第2帙下(小室信介 案外堂、1884年)
『生野史校補代官編』(太田虎一原著・柏村儀作校補 生野町役場、1966年)
『朝来志』(木村発編著 名著出版、1973年)
『朝来町立野の史跡 鍬と錫杖』(椿野秀男 朝来町歴史研究会、1983年)
『徳川幕府全代官人名辞典』(村上直・和泉清司・佐藤孝之・西沢淳男編 東京堂出版、2015年)

馬神神社(小林大明神)の場所(地図)と交通アクセス

名称

馬神神社

場所

兵庫県朝来市立野46

備考

「馬神神社」は、立野集落南東側の山麓に鎮座しています。この神社の創建年代は不詳ですが、応神天皇を主祭神とし、明治時代には村社に列せられました。

場所はJR播但線「新井駅」から歩いて15分ほど、国道312号沿いのガソリンスタンド「コスモ石油ニュー朝来サービスステーション」がある交差点を東へ250メートルほど進んだ奥です。参道の坂を上る途中に墓地があります。なお、獣害防止のためか普段は境内入口が鉄扉で閉鎖されています。自動車の場合は播但連絡道路「朝来インターチェンジ」からおよそ3分です。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)