五穀神社

先賢・循吏の史跡

筑後国(今の福岡県)久留米藩では、夏物成の増税を契機に「享保の一揆」が起こりましたが、家老・稲次因幡正誠の決断により、百姓側の犠牲者を出さずに事態の収拾が図られました。この一件で藩主と不和になった稲次因幡は家禄を没収され、蟄居先であえなく病没したことから、後に「五穀神社」に祀られたといわれています。

伝承の内容と背景

第6代藩主・有馬則維(のりふさ)の時代、久留米藩は正徳検地や春免法(秋の収穫を見込んで米の年貢を春先に決定し予定納税させる方法)の導入による年貢増収を図り、領内百姓の不満が高まっていました。
加えて、藩主・有馬則維が愛妾の子・宅之進を後継に据えようとし、これに本庄主計ら側近の藩士が賛同したのに対して、譜代の家老・稲次因幡正誠(まささね)が藩主に諫言して嫡子・頼徸(よりゆき)廃立を阻止するなど、世嗣問題にからむ内部対立も深刻でした。

こうした中、享保13年(1728)2月には、郡方総裁判の本庄主計が夏物成(大麦・小麦・菜種にかかる年貢)を従来の10分の1から3分の1へと引き上げる触を出したことから、百姓中から藩に対して年貢を従来どおりに戻すことを求める嘆願書が多数提出され、特に生葉・竹野・山本の上三郡の百姓を中心に不穏な情勢となりました。

3月には本庄主計と有馬監物・内記・壱岐3家老の連名をもって、年貢は改正以前のとおりするので安心して農業に励むようにと諭す書付が、生葉郡吉井大庄屋の石井勘助宅に百姓を集めて申し渡されたため、いったんこうした動きは沈静化を見せました。
そして本庄主計と小姓組頭・久米新蔵の両人は、ほどなく騒動の責任を問われて藩士方にお預けとなり、後に揚り屋へと入牢させられています。

江戸にいた藩主・則維は知らせを聞くと、百姓の勢いに驚いて国元の家老らが書付を出したことを「御家老中始物驚早クウロタへ申故ノ事」(『久留米小史』)として軟弱ぶりを非難し、他領よりも年貢は軽いのだから百姓が重税で難儀だと思うのなら幕府でも江戸の奉行でもどこへなりとも訴え出ればよいと言い切って、高圧的な態度を変えようとはしませんでした。

この間にも家老・稲次因幡らは「百姓納得」のために「御賢慮」を求める書状を江戸の藩主に宛てて上申していますが、ついに8月18日、約束に反していつまでも負担軽減が実現しないことに憤った上三郡の百姓が善導寺(今の久留米市善導寺町)に向けて出発し、20日には同寺に5千7百人あまりが集結しました。
23日には大庄屋・庄屋らの制止を振り切り、大挙して府中切通し(今の久留米市御井町)まで押し出し、いよいよ久留米城下で強訴に及ぶ寸前にまで至っています。

家老・稲次因幡は事態を収拾するため、郡奉行の安藤和久之丞・粟生左太夫を出張させ、夏物成は従来どおりの税率に戻し、春物成にあっても高10石につき1石1斗を免除する旨を伝えたため、要求が受け容れられたと判断した一揆勢は、24日晩までにそれぞれの居村へと引き上げていきました。

この年の11月、一揆の原因をつくった本庄主計・久米新蔵の両人は、「表裏を構へ上を掠下を欺き及百姓騒動候段不届之至」として死刑となり、一方で稲次因幡の計らいにより、百姓側にはひとりの犠牲者もありませんでした。

もっとも、第6代藩主・則維が隠居して第7代藩主・頼徸の時代となった享保19年(1734)には、稲次因幡も「不行跡」を理由に家老職から十人扶持の小身に落とされ、家禄3千石を没収の上で蟄居を命じられています。
これも本来は藩主の命により死刑となるべきところ、家老の岸刑部正知・有馬監物康長が罪一等を減じ「死刑御宥免」とするよう嘆願したため、辛くも命だけは救われたかたちです。
藩主・頼徸は和算の大家として知られる一方、後の宝暦4年(1754)に起きた10万人規模の全藩一揆「宝暦の一揆」では大庄屋の高松八郎兵衛を含む37人の処刑を命じるなど、先代同様に百姓に対して苛烈な態度で臨んでいます。

そして元文元年(1736)、疱瘡をわずらった稲次因幡は、蟄居先の御原郡津古村(今の小郡市津古)において35歳の生涯を閉じ、御原郡松崎町(今の小郡市松崎)の霊鷲寺(りょうじゅうじ)に葬られました。

寛延2年(1749)、藩主・有馬頼徸は久留米城下にインドの五穀の神・婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)を祀る「五穀神社」を創建しましたが、実際には稲次因幡の霊が枕元でしきりに諫言するので慰霊のために神社を創建したという伝承があります。
また、稲次因幡に恩義を感じた久留米藩領内8郡の農民たちが資金を出し合って稲次因幡を祀る神社を創建したともいわれ、『米府年表』にも本殿は大庄屋中、拝殿は惣郡中の寄進であると書かれています。

参考文献

『久留米市史』第2巻(久留米市史編さん委員会編 久留米市、1982年)
『久留米市誌』下編(久留米市役所編 名著出版、1973年)
『久留米小史』巻之十六(戸田乾吉 宮原直太郎、1895年)
『稲次因幡正誠伝』(浅野陽吉 筑後郷土研究会、1936年)

五穀神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

五穀神社

場所

福岡県久留米市通外町58番地

備考

「五穀神社」は、JR九州新幹線・鹿児島本線・久大本線「久留米駅」から西鉄バス(20・23系統)で15分、「五穀神社前」バス停で下車して徒歩3分の場所にあります。自動車の場合、九州自動車道「久留米インターチェンジ」で降りて国道322号を経由し、「五穀神社」交差点を北に入ります。境内外周道路の西側、社殿近くに若干台の駐車場があります。

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稲次因幡の墓

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)