本庄重政墓

先賢・循吏の史跡

江戸前期、福山藩水野家に仕えた本庄(本荘)重政は、松永湾を干拓して塩田を開き、昭和に至るまで地域の主要産業となる製塩業の基礎を築きました。延宝4年(1676)に亡くなった重政は、菩提寺の承天寺に葬られましたが、宝暦9年(1759)には地元の人々がその遺徳を偲んで「本荘神社」を創建しています。

伝承の内容と背景

慶長11年(1606)、備後国(今の広島県)福山藩主・水野勝成の家臣である本庄重紹の長男として生まれた本庄重政は、弟・重幸に家督を譲ると江戸に出て兵学修行に勤しみ、「島原の乱」では唐津城主・寺沢堅高の軍に属して武勲を立てました。

その後は備前国(今の岡山県)岡山藩主・池田光政に仕えたものの、禄高への不満から出奔し、製塩業が盛んな播磨国(今の兵庫県)赤穂藩の家老・大石頼母助の許に身を寄せていたところ、福山藩主・水野勝俊に請われて承応3年(1654)に福山藩へと戻りました。ただし、重政には岡山藩から奉公構が出ていたため、代わりに嫡男・杢(重尚)を食禄500石で召し抱え、重政自身はその後見という名目で備後国沼隈郡高須村(今の広島県尾道市)に居住させています。

福山藩に移った重政は、明暦2年(1656)以降、柳津新涯・深津新涯・高須新涯をはじめとする沿岸部の干拓を次々と成功させました。特に、万治3年(1660)から寛文7年(1667)にかけての期間に、遠浅の海が広がる松永湾を干拓して「四十八浜」と呼ばれる塩浜(塩田)を造成し、昭和35年(1965)の塩田廃止までおよそ300年にわたり地域の主要産業となった製塩業の基礎を確立した功績が知られます。

この松永の塩田の規模は実に39町6反超(およそ40ヘクタール)に上り、寛文7年に塩戸税として銀100枚を藩に献上した本庄重政は、藩主・水野勝種から褒美として銀30枚を賜るとともに、沼隈郡新涯奉行に任じられています。重政は住居や菩提寺を松永に移し、以後も塩田地帯の振興に当たりましたが、延宝4年(1676)2月15日に病のため70歳で亡くなりました。

本庄重政は菩提寺の承天寺に葬られましたが、境内裏手の本庄家墓地には、左から順に弟・重幸、嫡男・重尚、そして重政の3本の墓塔が並んでいます。もっとも右側が広島県指定史跡「本庄重政墓」であり、花崗岩でつくられた珍しい八角形をした逆修塔です。

さらに宝暦9年(1759)には、浜人の村上久兵衛らが承天寺の円極和尚に願い出て、本庄重政の遺徳を偲んでその屋敷跡に「本荘神社」を創建しており、天保2年(1831)には社殿が再建されました。昭和50年(1975)にも同じ境内に「本荘重政公顕彰之碑」が建立されています。

参考文献

『広島県沼隈郡誌』(広島県沼隈郡役所編 先憂会、1923年)
『松永塩業史・文化史の研究』(石井亮吉 日本専売公社塩業近代化本部塩業大系編さん室、1973年)
『新修尾道市史』第4巻(青木茂編著 尾道市役所、1975年)
『福山市史』中巻(福山市史編纂会編 国書刊行会、1983年)

本庄重政墓の場所(地図)と交通アクセス

名称

本庄重政墓

場所

広島県福山市松永町5丁目37-35

備考

「本庄重政墓」は、承天寺の山門を出てすぐ南側に隣接する墓地内にあります。山門の脇に標柱があり、通路をそのまま進むと白壁の塀に囲まれた3本の墓石が並ぶ区画があるのですぐにわかります。墓域の前には別に「史蹟本荘重政墓」の石碑があり、碑に「右端四角台八角墓碑」と刻まれているとおりです。自動車の場合、承天寺の石段下に若干のスペースがありますが、ほかに承天寺の裏山を大回りして墓地の裏手に至る墓参専用の広い駐車場があります。

関連する他の史跡の写真

承天寺
本荘神社
本荘重政公顕彰之碑

 

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)