藤江監物父子墓所

藤江監物父子墓所

先賢・循吏の史跡

享保9年(1724)、日向国(今の宮崎県)延岡藩の家老・藤江監物は、郡奉行の江尻喜多右衛門に命じて臼杵郡出喜多村(今の延岡市)の灌漑事業に着手しますが、難工事により出費がかさみ、享保16年(1731)には軍資金流用の嫌疑を受けて獄死してしまいます。工事は一時中断するものの、遺志を継いだ江尻喜多右衛門によって、享保19年(1734)にようやく完成を見るに至りました。藤江監物は恩義を感じた村人らによって出北観音堂に祀られたほか、牢があった舟の尾など複数の場所に墓も建てられています。

伝承の内容と背景

日向国延岡藩領内の臼杵郡出喜多村では、「雲雀野」と揶揄された荒れ地の農業用水確保をたびたび庄屋から藩に訴えるものの進展がなく、享保9年(1724)、家老の藤江監物によってようやく採択されるところとなりました。

藤江監物は灌漑事業に詳しい郡奉行の江尻喜多右衛門を抜擢し、近くの五ケ瀬川から取水するために岩熊井堰や出北用水路の開削に着手しますが、洪水で破堤するなど工事は困難をきわめ、出費も7万両にまでかさむようになります。

このような中、筆頭家老の牧野斎宮は、藤江監物が軍資金を流用して私腹を肥やしていると藩主・牧野貞通に讒言したため、享保16年(1731)に藤江監物とその嫡子3人が捕らえられ、七折村(今の西臼杵郡日之影町)の船の尾代官所近くに新造された牢に幽閉されました。

当時の七折村庄屋の日記には、「藤江監物様近年奢に長じ権威募り、悪事数多有之由にて召捕られ牢屋仰せ付けられ候由」として、近在の高千穂小侍衆が召集されて代官所から牢番を申し付けられるなど、日々30人に及ぶ物々しい警固が付いたことを伝えています。

クスノキの生木で造られた牢は樟脳の臭いがたちこめる劣悪な環境で、体が弱かった長男の藤江図書(ずしょ)がまず牢死し、これに憤った藤江監物も絶食して、この年の旧暦8月18日に45歳で亡くなりました。

その後、藤江監物の遺志を継いだ江尻喜多右衛門が身命を堵して工事を進め、監物没後3年が経った享保19年(1734)、延長3里(12キロメートル)にわたる出水用水路と岩熊井堰が完成を見るに至りました。

また、藤江監物の公金流用疑惑も事実無根であったことが判明したため、次男の藤井多治見と三男の川崎右膳は罪を赦されて出獄し、改めてそれぞれ100石と50石の知行が宛てがわれ、宮崎陣屋詰めとして公職に復帰しました。

この水田灌漑事業によって、工事前に150石だった米の収量は755石まで増加したといい、恩義を感じた村人らによって、藤江監物と江尻喜多右衛門の両人が「出北観音堂」に祀られたほか、藤江家菩提寺の雲峰山昌竜寺にも「監物堂」が建てられました。

延岡藩牧野家は後に常陸国(今の茨城県)笠間藩に転封となっており、ほかにも江戸の笠間藩下屋敷の邸内社を起源とする笠間稲荷神社東京別社社殿内の石祠に「晴雲神社」として藤江監物が祀られています。

「藤江監物父子の墓」は牢があった舟の尾の昌竜寺近くにあり、牛馬の病気に御利益があるとして農民が墓石を削って持ち帰ったたため不自然に摩耗していますが、現在も土地改良区の役員が命日にあわせて墓所を参拝するなど供養が続けられています。

藤江監物父子の墓所は舟の尾だけにとどまらず、本東寺など複数の場所に建てられており、その人望の厚さが窺えるほか、大正13年(1924)には用水開削の功績をもって従五位の位階を追叙されています。

参考文献

『高千穂町史』(宮崎県高千穂町編 宮崎県高千穂町、1973年)
『宮崎県近世社会経済史』(小寺鉄之助 宮崎県史料編纂会、1958年)
『日之影町史』11(通史編)(日之影町 日之影町、2001年)

藤江監物父子墓所の場所(地図)と交通アクセス

名称

藤江監物父子墓所

場所

宮崎県西臼杵郡日之影町七折地内

備考

「藤江監物父子墓所」に行くには、付近を走る国道218号沿いの「カフェ・ルジェトア」(宮崎県西臼杵郡日之影町七折2195-イ)道路挟んで反対側の「藤江監物史跡入口」「藤江監物父子の墓及び牢獄跡入口」の標識を目印にします。

標識の北200メートルでいったん右折、さらに100メートル先の「追分け地蔵」の角を右折し、道なりに300メートルほど進むと、墓所に至る石段があり、左右に藤江監物・図書父子の墓石が並び、日之影町教員委員会の解説板も掲げられています。

舗装されてはいるもののかなり幅員が狭い道路のため、地理院地図では道路が表示されていません(google地図yahoo!マップでは確認できます)。

関連する他の史跡の写真

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藤江監物父子の墓(惣領公民館敷地内)
晴雲神社(笠間稲荷神社東京別社社殿内)

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)