先賢・循吏の史跡

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先賢・循吏の史跡

平山霊神社(平山角左衛門と尾道築港)

広島藩の尾道町奉行となった平山角左衛門尚任(なおずみ)は、寛保元年(1741)の住吉浜埋立により今の尾道港の基礎を築き、感謝した人々から「平山霊神社」の生祠に祀られました。後には「平山市尹紀功碑」の建...
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治水神社(宝暦治水と薩摩義士)

木曽三川の下流域では洪水被害が深刻だったことから、江戸幕府は薩摩藩に御手伝普請を命じ、「宝暦治水」と呼ばれる大掛かりな治水事業に着手しました。工事は宝暦4年(1754)から翌年にかけて行われ、薩摩藩か...
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滝本の代官塚(御代官池田仙九郎・重田又兵衛塚)

江戸時代中期、美作国(今の岡山県)の幕府領で代官を務めた重田又兵衛信征(のぶゆき)・池田仙九郎但季(ただすえ)の両人は、困窮した農村を救済して領民から慕われ、勝北郡北野村(今の勝田郡奈義町)に両人の名...
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郡代塩谷の碑

江戸時代後期、塩谷(しおのや)大四郎正義は19年にわたって豊後国日田郡(今の大分県日田市)の日田代官・西国郡代を務め、小ヶ瀬井路の開削や三隈川の通船工事など、民政面で多くの実績を上げました。塩谷大四郎...
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石黒神社(鹿田代官・石黒小右衛門と貢租半免)

鹿田(かった)代官の石黒小右衛門政宇(まさずみ)は、宝暦5年(1755)に旭川の大洪水があった際、飢えに苦しむ美作国真島郡向津矢(むかつや)村(今の岡山県真庭市)の人々を救うため独断で年貢を半減し、幕...
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酒井七左衛門の墓

境川の水害に悩む美濃国(今の岐阜県)の松枝輪中の人々は、尾張藩の代官を通じて築堤を願い出るものの認められず、畑に盛土をして堤防代わりとする「畑繋堤」を自前で築きました。無届けの「畑繋堤」は何度か取払い...
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早川代官遺愛碑

江戸時代の天明年間から久世代官・笠岡代官を務めた早川八郎左衛門正紀(まさとし)は、赤子間引きの禁止や農桑の奨励、学校創設などさまざまな施策で疲弊した農村の復興に尽力し、4度にわたる留任願いが出されるほ...
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井戸平左衛門の墓

江戸時代の享保年間、大田代官・笠岡代官となった井戸平左衛門は、「享保の大飢饉」で深刻な状況にあった村々の年貢を減免するとともに、陣屋の米蔵を独断で開いて飢えた人々に食糧を分け与えました。また、救荒用作...
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沢君遺愛之碑

江戸時代、尾張国中島郡(今の愛知県稲沢市)は湿気の多い土地柄のため百姓は難儀をしていましたが、尾張藩の清須代官となった沢園兵衛は、須ヶ谷川の開削を進めるなどしてこの窮状を救いました。地元では沢園兵衛を...
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頼杏坪充糧碑

広島藩儒として知られる頼杏坪は、備後国(今の広島県)三次郡の代官などを歴任し、荒廃した農村の立直しにも取り組んでいます。神社で敬老会を催し民心の掌握に努めるとともに、飢饉対策として領民に実のなる柿の木...
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五穀神社

筑後国(今の福岡県)久留米藩では、夏物成の増税を契機に「享保の一揆」が起こりましたが、家老・稲次因幡正誠の決断により、百姓側の犠牲者を出さずに事態の収拾が図られました。この一件で藩主と不和になった稲次...
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安藤神社

伊予国(今の愛知県)宇和島藩の支藩・吉田藩では、寛政5年(1793)、紙専売制強化に反対する1万人規模の「武左衛門一揆」が勃発しました。吉田藩家老・安藤儀太夫(安藤継明)は一揆勢と交渉しようとするもの...
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