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書誌その他

東洋民権百家伝(東洋義人百家伝)

『東洋民権百家伝』は、小室信介が明治16年(1883)から翌年にかけて刊行した著作物で、民衆のために一命を賭した人々の埋もれた事績を掘り起こし、自由民権運動に資することを目的としたものです。『東洋民権...
義民の史跡

北山善次郎夫婦の墓(滝村庄屋・善次郎の越訴)

豊岡藩の減封に伴い幕府直轄領となり、年貢負担が増大した但馬国城崎郡(今の兵庫県豊岡市)50か村では、滝村庄屋・善次郎を惣代として、江戸で負担軽減を求める越訴に及びました。善次郎は足かけ4年にわたる入牢...
先賢・循吏の史跡

山中神明宰の碑(山中太郎右衛門と天明の飢饉)

幕府陸奥代官だった山中太郎右衛門は、天明3年(1783)の飢饉に際し、独断で年貢を収納していた上米蔵じょうまいぐらを開いて出羽国置賜郡屋代郷(今の山形県東置賜郡高畠町)の人々に施しました。これに感謝し...
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先賢・循吏の史跡

豊池神社(林六三郎と建地築堤)

田辺藩郡奉行の林六三郎は、干ばつに悩む丹後国加佐郡上福井村のため、隣村・上東村かみひがしむら(ともに今の京都府舞鶴市)との共同水利として、建地峠たけじとうげでのため池造成を推進しました。「豊池とよいけ...
義民の史跡

伊曽島神社(福豊十六人衆と豊松新田・福井新田越訴)

木曽三川の河口に当たる豊松新田・福井新田(今の三重県桑名市)はたびたび洪水の被害に悩まされており、享保10年(1725)に儀左衛門らあわせて16人の「福豊十六人衆」が幕府老中に直訴した結果、享保13年...
義民の史跡

栗村吉次郎の墓(綾部藩領栗村吉次郎の強訴)

元文元年(1736)、前年に大規模な百姓一揆が起きていた綾部藩領では、丹波国何鹿郡栗村(今の京都府綾部市)の高橋吉次郎が強訴の罪をもって打首となりました。吉次郎が葬られた本福寺では、供養のために吉次郎...
義民の史跡

殉義蘇民の碑(広瀬屋清七郎と天明大原騒動)

飛騨郡代・大原亀五郎は、「一条金」6千両余りを村々から借り入れたり、年貢の過納金を返還せず献納を強制したりしたため、飛騨国益田郡跡津村(今の岐阜県下呂市)出身で高山陣屋の取次役だった広瀬屋清七郎らは、...
先賢・循吏の史跡

本庄重政墓

江戸前期、福山藩水野家に仕えた本庄(本荘)重政は、松永湾を干拓して塩田を開き、昭和に至るまで地域の主要産業となる製塩業の基礎を築きました。延宝4年(1676)に亡くなった重政は、菩提寺の承天寺に葬られ...
先賢・循吏の史跡

小林大明神(小林孫四郎政用と柳野呂堤防)

安永8年(1779)に生野代官となった小林孫四郎政用は、領民から「慈愛ノ御代官」と慕われ、円山川と神子畑川の合流部に「柳野呂堤防」を築いて農地を水害から守った事績が伝わっています。人々は堤防上に「小林...
先賢・循吏の史跡

小島蕉園翁頌徳碑

徳川御三卿の一つ・田安家の代官として甲斐国(今の山梨県)田中陣屋に赴任した小島蕉園は、善政をもって領民に慕われ、官を辞して後は江戸で医者として生計を立てていました。もとの領民たちは惣代3人を江戸に派遣...
先賢・循吏の史跡

全国の幕府代官所・郡代役所の一覧

以下は江戸幕府が全国に開設していた代官所・郡代役所の位置を地図上に打鋲したものです。江戸時代末期の文久3年(1863)を基準としているため、年代によってはこれ以外にも多くの代官所が開設されていました。...
先賢・循吏の史跡

平山霊神社

広島藩の尾道町奉行となった平山角左衛門尚任(なおずみ)は、寛保元年(1741)の住吉浜埋立により今の尾道港の基礎を築き、感謝した人々から「平山霊神社」の生祠に祀られました。後には「平山市尹紀功碑」の建...
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