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義民の史跡

伊曽島神社(福豊十六人衆と豊松新田・福井新田越訴)

木曽三川の河口に当たる豊松新田・福井新田(今の三重県桑名市)はたびたび洪水の被害に悩まされており、享保10年(1725)に儀左衛門らあわせて16人の「福豊十六人衆」が幕府老中に直訴した結果、享保13年(1728)に堤防・新田の再築が図られま...
義民の史跡

栗村吉次郎の墓(綾部藩領栗村吉次郎の強訴)

元文元年(1736)、前年に大規模な百姓一揆が起きていた綾部藩領では、丹波国何鹿郡栗村(今の京都府綾部市)の高橋吉次郎が強訴の罪をもって打首となりました。吉次郎が葬られた本福寺では、供養のために吉次郎の名を刻む梵鐘が鋳造されたほか、別に首塚...
義民の史跡

殉義蘇民の碑(広瀬屋清七郎と天明大原騒動)

飛騨郡代・大原亀五郎は、「一条金」6千両余りを村々から借り入れたり、年貢の過納金を返還せず献納を強制したりしたため、飛騨国益田郡跡津村(今の岐阜県下呂市)出身で高山陣屋の取次役だった広瀬屋清七郎らは、郡代の不正を老中・松平定信や幕府巡検使に...
先賢・循吏の史跡

本庄重政墓

江戸前期、福山藩水野家に仕えた本庄(本荘)重政は、松永湾を干拓して塩田を開き、昭和に至るまで地域の主要産業となる製塩業の基礎を築きました。延宝4年(1676)に亡くなった重政は、菩提寺の承天寺に葬られましたが、宝暦9年(1759)には地元の...
先賢・循吏の史跡

小林大明神(小林孫四郎政用と柳野呂堤防)

安永8年(1779)に生野代官となった小林孫四郎政用は、領民から「慈愛ノ御代官」と慕われ、円山川と神子畑川の合流部に「柳野呂堤防」を築いて農地を水害から守った事績が伝わっています。人々は堤防上に「小林大明神」の小祠を設けて代官を祀り、後に馬...
先賢・循吏の史跡

小島蕉園翁頌徳碑

徳川御三卿の一つ・田安家の代官として甲斐国(今の山梨県)田中陣屋に赴任した小島蕉園は、善政をもって領民に慕われ、官を辞して後は江戸で医者として生計を立てていました。もとの領民たちは惣代3人を江戸に派遣し、貧しく暮らす蕉園に金百両を贈ろうとし...
先賢・循吏の史跡

全国の幕府代官所・郡代役所の一覧

以下は江戸幕府が全国に開設していた代官所・郡代役所の位置を地図上に打鋲したものです。 江戸時代末期の文久3年(1863)を基準としているため、年代によってはこれ以外にも多くの代官所が開設されていました。 なお、作図に当たっては、次の文献及び...
先賢・循吏の史跡

平山霊神社

広島藩の尾道町奉行となった平山角左衛門尚任(なおずみ)は、寛保元年(1741)の住吉浜埋立により今の尾道港の基礎を築き、感謝した人々から「平山霊神社」の生祠に祀られました。後には「平山市尹紀功碑」の建碑や「尾道みなと祭」の開催も行われるよう...
先賢・循吏の史跡

治水神社(宝暦治水と薩摩義士)

木曽三川の下流域では洪水被害が深刻だったことから、江戸幕府は薩摩藩に御手伝普請を命じ、「宝暦治水」と呼ばれる大掛かりな治水事業に着手しました。工事は宝暦4年(1754)から翌年にかけて行われ、薩摩藩からは総奉行・平田靱負らが現地に送り込まれ...
義民の史跡

若宮神社(和泉新三郎と有馬検地)

慶長6年(1601)、福知山城主・有馬豊氏が領内で過酷な検地を実施したため、丹波国天田郡厚村(今の京都府福知山市)では、未進年貢を厳しく取り立てた役人を和泉新三郎が殺害する事件が起きたと伝わっています。その後、新三郎の墓が村人に祟りをなすた...
書誌

図説日本の百姓一揆

『図説日本の百姓一揆』は、日本全国の百姓一揆の事例を豊富な図版や写真を交えてわかりやすく解説した書籍です。小中学校での地域教育の教材などとしても活用することができます。 『図説日本の百姓一揆』のあらまし 『図説日本の百姓一揆』とは、日本全国...
書誌

百姓一揆総合年表

『百姓一揆総合年表』は、天正18年(1590)から明治10年(1877)までの期間に全国各地で発生した百姓一揆・都市騒擾・村方騒動・国訴を網羅した年表です。百姓一揆としては3,711件、都市騒擾や村方騒動まで合わせると実に7,563件が収録...